羅子は水滸を撰し、而して三世唖児を生み、紫媛は源語を著し、而して一旦悪趣に堕つる者、蓋し業を為すことの迫る所耳。然り而して其の文を観るに、各々奇態を奮ひ、あん哢真に迫り、低昂宛転、読者の心気をして洞越たらしむる也。事実を千古に鑑せらるべし。余適鼓腹の閑話有り、口を衝きて吐き出すに、雉鳴き竜戦ふ。自ら以て杜撰と為す。即ち適読する者、固より当に信と謂はざるべき也。豈醜唇平鼻の報を求む可けん哉
水滸伝や源氏物語の作者たちは時代によっては罰を受けている人たちであった。人々を文で惑わしたからである。羅漢中の子孫は口がきけなかった。紫式部は地獄に墜ちた。で、わたしも彼らと同じようにはき出してみたい話があるんだが、我ながら杜撰、出鱈目だ。だから私の話が人々を惑わすはずがない。唇や鼻がかけるわけがない。――というのだが、この人、上田秋成は、剪枝畸人と称している。痘瘡で指が短かったのだ。
もともと地獄に墜ちているのだから、もう奇怪な話を繰り出す自分はなんということもない。――こういう人がこの物語の作者だった。
高校の時は、こんなことにすら気がついていなかった私は、化け物話をしてきた先人達がどういう境遇であったのか想像せざるを得ない。
またこんな事を考える、科学教育はやはり昔の化け物教育のごとくすべきものではないか。 法律の条文を暗記させるように教え込むべきものではなくて、自然の不思議への憧憬を吹き込む事が第一義ではあるまいか。 これには教育者自身が常にこの不思議を体験している事が必要である。 既得の知識を繰り返して受け売りするだけでは不十分である。 宗教的体験の少ない宗教家の説教で聴衆の中の宗教家を呼びさます事はまれであると同じようなものであるまいか。
こんな事を考えるのはあるいは自分の子供の時に受けた「化け物教育」の薬がきき過ぎて、せっかく受けたオーソドックスの科学教育を自分の「お化け鏡」の曲面に映して見ているためかもしれない。 そうだとすればこの一編は一つの懺悔録のようなものであるかもしれない。 これは読者の判断に任せるほかにない。
――寺田寅彦「化け物の進化」
化け物話は、人の心を伝えるだけではない。科学の基なのである。PDCAだかなんだかでなにも出てこないのは当たり前なのだ。