身のうさは人しも告じあふ坂の夕づけ鳥よ秋も暮れぬと
かくよめれども、国あまた隔ぬれば、いひおくるべき伝もなし。世の中騒がしきにつれて、人の心も恐ろしくなりにたり。適間とふらふ人も、宮木がかたちの愛たきを見ては、さまざまにすかしいざなへども、三貞の賢き操を守りて、つらくもてなし、後は戸を閉て見えざりけり。
上の歌は好きである。歌はやはり他人に届けようとして届かないような勢いが必要だと思う。この性格を失っているラブレターとしての歌は我々がやっているラインみたいなもので、ほとんど「表現」じゃないのではないか。上の歌の場合、告げること自体が自分ではなくなっている。しかし自分が告げている。――こういう関係は、切羽詰まった表現によくあるのではないか。もっとも、それには羞恥心がともなう。
「でも、もしどこかいたんでいやしないかしら。」
というなり、箱の中の羽衣を手に取りました。そしておかあさんが「おや。」と止めるひまもないうちに、手ばやく羽衣を着ると、そのまますうっと上へ舞い上がりました。
「ああ、あれあれ。」
と、おかあさんは両手をひろげてつかまえようとしました。その間に少女の姿は、もう高く高く空の上へ上がっていって、やがて見えなくなりました。
――楠山正雄「白い鳥」
羞恥心をとりさるためには、物語で理屈づけるということも必要になってくる。そして、大概、そのときの鳥はどこかに飛び去ってしまう。