★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

風景と本性

2020-12-18 23:25:13 | 文学


いづれか我が住みし家ぞと立ち惑ふに、ここ二十歩ばかりを去て、雷に砕かれし松の聳えて立るが、雲間の星のひかりに見えたるを、げに我が軒の標こそ見えつると、先嬉しきここちしてあゆむに、家は故にかはらであり。

画に過ぎるような場面である。むかし、この場面をすごくうつくしく感じたが、いまはそうでもない。こういう場面は、あんがい平凡なわたしのような者にもあり、大概そのあとにあまり面白くない不幸があったりして、――そういうことが思い浮かんでしまうからかもしれない。

今日は、オンライン授業した後、松田優作の「暴力教室」というのを鑑賞した。わたくしはまだ小学生に上がったばかりのころの映画である。受験勉強や親のあり方がいやで?バイクを乗り回して不良?になっている人たちを、ボクシングで相手を死なせてしまったボクサーが教師(松田)になって制圧しに来たところ、その教師の妹が不良のボスに乱暴されたりしたので、松田優作が相手をたたきのめしたりする。んで、いろいろあるが、汚職をやっている校長だか理事長だかが、それに感づいた女教師といっしょにいた上の妹と一緒になき者にしようと、体育会系の生徒会長を使う。生徒会長は剣道部を使って女教師をレイプし妹をトラックで轢く。――濡れ衣を着せられた上の不良ども。妹が死んで怒り狂った松田優作が学校に乗り込んで、あとから不良どもも乗り込んで大乱闘。炎に包まれる学校。警察がやってくる。

こんな話だが、おもしろかったのは、炎に包まれる学校の場面で、職員室の採点されたテストが燃えていたことである。

やはり気にしていたのは、成績だったのだ……。

そういえば、マイナンバーと学校の成績などを紐付けて調べられるようにするとかいう案がでているそうである。

勲章にたよる官僚や軍人の頭が腐っているのは自明であって、いまも数値に頼るべきでないときに頼るクズが多くなり、ゴーゴリの小説を更に戯画化したような世の中がやってきている。――だれが、上のようなクソじみたことを考えているのであろう。過去の成績なんか参照せずとも、教師は目の前の子どもを教育す「べき」なのだ。過去のエビデンスを参考にしなければなんも思いつかない教師なんか頭が×いとしかいいようがないので、さっさとやめた方がいい。ほんとうは、勉強している本人もそうなのだ。わたくしの過去を考えてみても、過去の点数をいつまでも気にかけている場合は、過去のそれが良くても悪くても確実に頭が働いていない、というか働かなく「なる」原因がその気にかけていることそのものであって、そのあと碌なことはない。古くさい言い方になるが、本質をつかまえようと心がけない人間というのは、何をやっても「悪い」。「だめ」なのではなく、悪人なのである。

腐った科学主義で、人間をよいところもあれば悪いところもあるみたいな斑模様で考えているうちは、小学生並みの倫理観から抜け出ることは出来ない。

思春期で学ぶべきなのは、人間の複雑さではなく、その複雑への意識が本性を見失わせ、責任を回避させるという欺瞞的なからくりである。

大学や官庁の中には、本性からの逃避で自分の仕事をアクセサリーみたいにあつかってる事態を、業績とかエビデンスとか呼んでいる頭の狂った、というより性根が狂った連中がたくさんいる。当たり前のことではあるのだが、我々は気をつけた方が良く、――気がついたら、事務方や学生まで同じような病に罹っていることがある。

そんなかんじの世の中ではあるのだが、人間一人一人は、「浅茅が原」のような風景をみて生きてはいるのだ。文学は、そんなところにばかり注目しているものだから、ときどき本性を見失っている作家もいる気がする。