★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さもしき人々

2020-12-02 23:35:13 | 文学


八日。なほ、川上りになづみて、鳥飼の御牧といふほとりに泊まる。今宵、船君、例の病おこりて、いたく悩む。ある人、あざらかなる物持て来たり。米して返り事す。男ども、ひそかにいふなり。「飯粒して、もつ釣る」とや。かうやうのこと、ところどころにあり。今日、節忌すれば、魚不用。


節忌だったので魚はいらなかったのであるが、と嫌みかなんかを言い放っているのであるが、国司の財産のおこぼれにあずかろうとする連中のさもしさよ。我々の文化に住み着いてしまった、貰えるんなら貰っておこうという悪い意味でのbeggar的な根性、いまはどこでもあり得るのであって、本当にうんざりする。この中にいると、どこからか金や米をぶんどってくる盗人みたいなやつが良心なんかを代表し始める。国の出すお金に群がってペコペコしているその態度も義心らしくみえてくるのだから。たしかに人助けの面を持つからそりゃそうだ。それが個人にまで縮小すると鼠小僧みたいな形象となるわけである。

かくして、予算獲得とGOTOなんとかが同じ現象であることが分からない人間とは同じ空気を吸いたくない気分であるのだが、そうはいっても、――わたくしも、学生時代はよく値引きの時間を狙ってお総菜コーナーに突撃したものであるから、あんまり人のことを言えたものではない。

先日、皇室の結婚について考えるみたいな特集が「朝日新聞」にでていて、あまりおもしろくなかったが、――学者ともとアナウンサーみたいな人が、いかにも社会科学的、人権上の正論を吐いていて、――そういうことを言いつづけることが、むしろいまの天皇制の正しい墜落を妨げているんだがな……、と思わざるを得なかった。ひとり橋田壽賀子だけが、皇室なんか関係ないけど、「ホームドラマ」なんだから自分も注目してしまいますとか、自画自賛かなんだかわけわかんない発言をしていて、結局人間の堕落に接近するつもりがあるのはこういう人だけか、と思わざるを得ない。橋田壽賀子は現代人にとっては心が真っ黒な人にみえるかもしれない。その通りである。しかし、物事をみるとどこかで聞きかじったような論理しか出てこず、いざ人とのつきあいになるとその全く面白くも何ともない人間性のためにストレスばかりが溜まってゆく我々よりはかなりましと言わざるを得ない。とはいえ、橋田氏のドラマでは、案外人物達が中途半端に堕落をやめて立身出世したりするのであるが……

米粒の中の仏様の問題になると、話は大分変ってくる。しかし研究生活などにも勉強している時と休んでいる時とが本質的に区別の出来ないものであるという見方があるとすると、米粒の中に仏様がいるというような迷信は早く打破しなくてはならないなど躍気になって主張するのも考えものである。畳の上にこぼれた米粒を拾って食べることは衛生上に危険であるとか、一粒の米を産出するに要する労力は殆んど零に近いとか、あるいはその一粒から得られる栄養価値は問題にならないという風な議論は一々もっともではあるが、あまり極端に人間の生活を衛生とか経済とか換算とかいう風に科学的にきざんで考えるのは、ある場合にはかえって本当の科学的の考え方から遠のいてしまうおそれもないでもない。もっとも経済学の原論では人間の生活の中から経済活動の方面だけを抜き出して、その経済人の生活を研究するのではまだ不十分であるという議論もあるそうであるから、何も事新しく述べ立てるほどのことでもないのであろう。

――中谷宇吉郎「米粒の中の仏様」


この人に比べれば、土佐日記の米粒の方が即物的である。中谷氏は人工雪をつくったひとだったが、たしか「雪は天から送られた手紙である」とかなんとか言っていた。文学をなめておるな。わたくしはこういうせりふが大嫌いなので、レポートでかかることを口走る学生など落第にしてしまいそうである。