うまれしもかへらぬものを我がやどに小松のあるを見るがかなしさ
とぞいへる。猶あかずやあらむ、またかくなむ、
見し人の松のちとせにみましかばとほくかなしきわかれせましや
わすれがたくくちをしきことおほかれどえつくさず。とまれかくまれ疾くやりてむ。
土佐日記の、風が吹いたのでお休みみたいな長々とした日記は、この最後の瞬間のためにあった。風と海に揺れてふわふわしていた心理は、京都の荒れ果てた家に帰ってみると、怖ろしく動かないものへと心を動かす。土佐で亡くした娘のことが心理の揺れがなくなると襲いかかるものであった。語り手は、こんな思いは書き尽くせるものではない、こんな駄文は破り捨てる、と言って日記をオシマイにしてしまう。
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
――中原中也「春日狂想」
近代の表現は、坂口安吾ではないが、堕落しようとする。振れ幅を大きくして、愛する者が死ぬと自殺だと言ってしまう。しかし、揺れ幅が大きいほど、それが帰ってくる幅も大きい。ほんとうは、土佐日記のように破り捨てるだけでよいのかも知れないのだ。自殺は過剰な和解を要求する。