最近、戦前の、いまからみると「→」にみえる人たちの著作を勉強しているが、上は今日読んだ本。マルクス主義の本が近づきがたい人は、こういう批判的な本から入るという手もあるであろう。非常に簡潔にまとめてくれているからである。そして、それは、半端なマルクスボーイの書いた啓蒙書よりも事態をきちんと捉えていることも多いのだ。言うまでもなく、我々の書物の読解とは、自らの状態を認識することと深く関わっているのだが、それが意識されるのは普通に考えられているよりも難しいし、長い時間を必要とする。
思うに、戦前においては、まだ日本の知識人がマルクスを自らの問題として読むのははやかったと言うしかない。それは、知的水準の問題じゃなくて、自らの置かれた文化に対する認識の問題なのである。おそらく、二、三人の三島由紀夫みたいな人物の後でしか、マルクスは復活しないのではなかろうか。
御廟のうしろの林にと覚えて、「仏法、仏法」となく鳥の音、山彦にこたへてちかく聞ゆ。夢然目さむる心ちして、「あなめづらし。あの啼鳥こそ仏法僧といふならめ。かねて此の山に栖つるとは聞きしかど、まさにその音を聞きしといふ人もなきに、こよひのやどりまことに滅罪生善の祥なるや。かの鳥は清浄の地をえらみてすめるよしなり。上野の国迦葉山、下野の国二荒山、山城の醍醐の峰、河内の杵長山。就中此の山にすむ事、大師の詩偈ありて世の人よくしれり。
ここで想起されているお大師さまさまでさえ、近代になると急速に忘れられているような気がする。いまや、うどんと池関係の人なのだ。マルクスも、こうやって思い出されつつ、消えつつを繰り返し、超人的な解釈者によって復活することもあり得る。そのためには、鳥の鳴き声のなかにも、マルクスの名前が混じってこなければならないであろう。