子曰、三人行、必有我師焉。択其善者而従之、其不善者而改之
三人が孔子を含めて三人である解釈に従えば、のこった他人のなかに必ず師がいるからこれに従い、よくないものはこれをあらためるべき(自分をかな?その悪い奴をかな?)である、ということになるのかもしれない。近い範囲で異様にガンバル孔子であった。普通は、このクソ田舎はロクなやつはおらんな出て行ってやる、みたいなことを思いがちである。(大概そういう人間は、一生そう思っている)しかし孔子は、師は側にいるし、悪い奴も側にいるというのだ。立派だと思う。
しかしまあ、もしかしたら今ほど人間が多くないので、我々は昔「群衆の孤独」どころか、動物との関係性を結び精一杯だったのかもしれない。やはり、現在の我々が犬猫ぐらいで思考停止するのに対し、昔の人たちは実にいろいろなものと関係性を持っているからだ。特に狐はほぼ人間――ではなく、狐は何らかの姿で恐らく狐をみる目で人間をみており、人間は狐を人間と見ることがあるという不思議さを表現するために、「化け」みたいな観念で処理したような気がするんだが、不思議さは解消されずに、大量の物語が作り出されることになった。
昔、一匹の白狐が蛻庵という坊さんに化けて、興禅寺へやってきた。
和尚さんは、すぐ狐と見破ったが、わけありそうな狐を、そのまま使ってやることにした。蛻庵は、かげひなたなくよく働き、和尚さんにすっかり気に入られてしまった。
ある日、飛騨の高山にある安国寺に用事ができたので、和尚さんは自分の代わりに蛻庵を使いに出すことにした。
蛻庵は、ありがたく承り、地蔵峠、西野峠、長峯峠を越え、飛騨の日和田村に着いた。
そこで猟師の家に泊めてもらうことにした。先を急いできた蛻庵である。それに、大事なお役目を抱えた心の疲れで、夕食のあと蛻庵は、囲炉裏のはたでついうとうとっとしてしまった。
猟師もまた、囲炉裏のはたで鉄砲を磨いているところだったが、ふとのぞいた銃口の先に見たものは、坊さんではない、坊さんの衣を着た狐だった。
「この狐、よくもおらをだましおって」
猟師は、ねらいをさだめ「パン」と撃った。
蛻庵は、突然のことに悲鳴も上げず、みるみる一匹の白狐にかわった。
猟師は、なんなく大狐をしとめたわいと、狐に近寄りひきおこして見ると、首になにやらかけている。包の油紙を開き中を見ると、それは飛騨の安国寺宛、木曽は興禅寺桂岳和尚からの手紙だった。
こんなことがあってから、日和田村に疫病が流行り出した。次から次へと村の人が死んでいく。
そのうち、これは狐を撃ち殺した祟りではないかと噂がたった。
そこで、村の人達は相談のうえ、興禅寺に出かけ、何もかも和尚さんに話し、狐の供養をしてもらうことにした。
和尚さんは蛻庵の霊をねんごろに弔い、境内に稲荷神社を建て祀った。
それから、日和田村の疫病はおさまり、この時から、日和田村の人達は興禅寺の檀家になったという。
――「興禅寺の狐2」http://minsyuku-matsuo.sakura.ne.jp/kisomonogatari/kisomatinomukasibanasi.html
我が田舎にある興禅寺には、義仲の墓の近くに稲荷神社があって狐が祀られているし、代官屋敷付近にも木乃伊が祀られている。仄聞したところでは、『落合郷土史』には、人間に化けた狐と義仲と一緒に討ち死にし、妻と子どもの狐がながく義仲とともに死んだ狐を弔った話が載っているそうである。これは擬人化ではない。ちゃんと狐は撃たなくちゃならない害獣だ。しかも人間のようにみえるのである。誰かが言っていた気がするが、「ごんぎつね」だって、害獣としての狐と狐に化かされる文化の範疇にある。だから人間と狐は対話出来ない。いまははじめから擬人法とやらで、ごんと対話できるような気がするから撃っちまうこともない様に思われるがそれは勘違いである。害獣であり化かしてくる相手には撃っちまうのが我々であって、いわばわれわれは、敵国を狐のように見ているのであった。
今日は、韓国とどこかが野球をやっていて、韓国が負けたので一部が盛りあがっていたが、――野球とかサッカーの国際試合があったときに、勤務時間内にその話題で盛り上がれるかどうかみたいなのが職場内での力関係みたいなものにつながっている場面て確実にあるように思われる。急に空間を隔てた筋肉に感応して筋肉になってしまう人間がいる。それはたぶん男に多く、兵十がいきなりぶっ放すのと似ている。
そういえば、今日、「わら人形論法」について調べようと思って、「わら人形」とグーグルに打ち込んだら、アマゾンの藁人形注文の頁に壮大にとんだでござる。五寸釘と軍手までついてくるセットがあって、さすが資本主義に魂売ると呪いも加速しとんな、と思ってよく見たら、「ワラ人形 丑の時参り の劇や 地獄少女 呪術廻戦 のコスプレに」とあった。まったく、本気で呪おうとしている人に失礼極まりない商売である。――しかしまあ、何も恨みが無いところに、わら人形を媒介に呪う人にシンクロしてしまったりする我々の社会とは一体何であろうか。
しかも、おれのグーグルの音声認識は、何故「有意水準」を何回も「よーいどん」と認識するのであるか。