★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

方便としての道徳

2023-03-12 23:44:05 | 思想


子曰、弟子入則孝、出則悌、謹而信。汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文。

よく言われてることなんだろうが、論語って、あれやってから次はこうで余力あったらあれをするみたいな順番をつけてるように思える。上だったら、孝→悌→信→愛→仁→文みたいな順番である。それが儒教道徳の親孝行が先じゃ兄弟は後じゃみたいなあれにつながって、果ては「教育勅語」の、天皇翼賛を文章そのもので表現するみたいなところまで繋がっている。しかし、論語を道徳としてとるなら、まずはむしろもっとばらばらに読むべきなのかもしれない。

とはいえ、論語の言い方は、例えば学校管理とか学級運営みたいな方法論としてみれば分かる気がする。子どもが意識を集中すべき観点の順番をつけていってコントロールするやり方だ。だから、上の場合だったら、人間道徳を涵養してから余力があったら古典を学べといっている――道徳みたいに捉えるだめで、いかに古典を学ぶ状態に移行させるのかといえば、まずは人間的に落ち着かせてからだ、ということになる。それは「余力」をつくりだすための方便なのである。実際、小学校の教育は、一見道徳にみえることがとにかくおとなしく座っている状態をつくりだすことである場合がある。これを「単に」、フーコーがいったように軍隊式「規律訓練」だからこわいと言ってるだけでは、現状を変革することはできない。我々が成熟するのに使う方法は、それだけみると邪悪なものにみえるが、それを取っ払えばいいというものでもないのだ。問題は、精神の自由をつねに追求出来ているかだとおもう。

だから、一応成熟した人間に対しては、規則を叩きこむのを最初にするんじゃなくて自由にしたほうがよいわけである。新任教員には研修や準備期間はないのかという議論があるが、一応あれなんだよ、そういうクソ研修がないことが教員の世界の自由を示していた時代や地域もあるわけで、自分で考えてやっていいよ、みたいなところがないと教育はきついにきまっている。かなり研究と似てんだから。自由というのが野放図すぎると感じられるのであれば、我々は物事を「常に」達成出来ず、精神が何かにむかって漸進するだけであるといってもよいかもしれない。我々はファシズムや軍国主義を達成したことはないのだ。

教育分野では意図的に過去の教育は軍隊みたいな一斉教育で画一的だったというデマが流されて、しかもそれを現場の教員が信じこみ、自分のやってることがよほど反抗を許さない指示中心の教育になってることに気付かない風土ができあがっている。自由のための方法論の追求ではなく、道徳としての理念に我々の精神を一致させようとすることが、てっとりばやい「指示」の多用に繋がるのである。ジェンダーや脳の多様性や発達の多様性が知られてきたことはいいことだという側面がある一方、それで人間の精神の自由がもたらされるほど人間はうまいこと出来ていないのは自明ではないか。むしろ、画一的表現のバリエーションが増えただけみたいな現状によく耐えられるものである。いや、むしろ、耐えてしまうのが我々なので、それを批評によっていつも、現実が本当はどうなっているのか示す必要があるわけである。

教育は研究に近いのである。これに対立するのが「部活」である。教員の世界にやたら「先輩教員」みたいな概念が導入されたのもある時期だと思われる。教員の世界が部活化したのである。「部活」は、それ自体を運営することが自明であって、伝統と作法が道徳化する。