宵少し過ぐるほどに、源中納言、狩の装ひにて、馬にておはして、南の山の隙垣外におはして、御座敷かせておはす。尚侍の殿かの木のうつほに置き給うし南風・波斯風を、我弾き給ひ、細緒をいぬ宮、竜角を大将に奉り給ひて、曲の物ただ一つを、同じ声にて弾き給ふ。 世に知らぬまで、空に高う響く。 よろづの鼓・楽の物の笛・異弾き物、一人して掻き合はせたる音して、響き上る。おもしろきに、聞く人、空に浮かむやうなり。 星ども騒ぎて、神鳴らむずるやうにて閃き騒ぐ。かつは、いかにせむとおぼえ給へど、聞きし給ふべく、はたあらず。御供なる左衛門尉なる者に太刀を抜かせて聞き給ふ。さまざまにおもしろき声々のあはれなる音、同じ声にて、命延び、世の栄えを見給ふやうなり。わりなくても、かくて聞かざらましかば、いかにくちをしからましとおぼえ給ふ。左衛門尉は、天を仰ぎて聞き居たり。
夜いたう更けぬれば、七日の月、今は入るべきに、光、たちまちに明らかになりて、かの楼の上と思しきにあたりて輝く。 神遥かに鳴りゆきて、月の巡りに、星集まるめり。 世になう香ばしき風、吹きはしたり。少し寝入りたる人々、目覚めて、異ごとおぼえず、空に向かひて見聞く。楼の巡りは、まして、さまざまに、めづらしう香ばしき香、満ちたり。三所ながら、大将おはする渡殿にて弾き給ふなり。下を見下ろし給へば、月の光に、前栽の露、玉を敷きたるやうなり。響き澄み、音高きことすぐれたる琴なれば、尚侍のおとど、忍びて、音の限りも、え掻き鳴らし給はず。 色々の雲、月の巡りに立ち舞ひて、琴の声高く鳴る時は、月・星・雲も騒がしくて、静かに鳴る折は、のどかなり。聞き給ふに、飽くべき世なう、暁までも聞かむと思すに、夜中多く過ぐるほどに弾きやみ給ひぬ。
このあと、いぬ宮への秘琴伝授完了の場面、――内侍に密かに入れ替わったいぬ宮の演奏がまったくきれめなく違和感がなかったというフィナーレがあるのだが、文の調子の高さはここらが一番のような気がする。物語は、最後、いぬ宮の琴に感動した人々が和歌を詠んでおわるが、なんとなくその歌が琴の崇高さに比べて人為的で平板な感じがする。この物語は空を見上げたまま呆然としている人々の様子が強くあって、これはたぶん「もののあはれ」と違うもんである。しかし、これがないともののあはれはただのあはれになってしまうのかもしれない。すなわち、モノに即するというのは、たぶん、届かないモノへの絶望や崇拝を導いてしまう。これは、琴の演奏が、言語を介さない(説明できないのではなく、そもそも介していない)領域であることから始まっていると思われる。我々の肉体がそのまま自然や天に感応してなにかを奏でている。実際、楽器を少しやってみたことのあるひとはわかるが、音楽は言語を介して体が動いているうちは巧くならない。初見演奏なんかはその典型で、楽譜はほとんど草や月のようなものであって、勝手に体が動く人間だけが可能なのだ。言葉とはこういう事態に対して非常に弱い。
この前「小説神髄」を雑に再読したが、――わたくしの雑な読み方のせいか、ずいぶん乱暴なことを言っているように思った。我々はこの乱暴さになれ過ぎた。竹取の最後にでてくる地面から浮いている月の軍隊への恐怖、かぐや姫の罪への疑惑、内侍の琴が大地と星と雲を揺るがすさまに、刀を抜きかけて震えている、これが我々の現在に続く姿ではなかろうか。しかもそれを忘れがちにもののあはれに沈んで行く、ここまでも一緒である。それは生殖をもとにした政治に過ぎないが、天と恐怖への関係においてもののあはれである。