手はいと小さきに、弾き鳴らし給へる音、さらに心もとなからず、いとかしこく心得給ひて弾き給ふ。片時に、調べは弾き給ひつ。次に、 また、曲の物一つ教へ奉り給ふに、いと同じく弾き取り給ふに、尚侍のおとど、さべきにて、かくおはすると見奉り給ひて、ゆかしくなむとて弾き立て給ひ、掻き合はせ給へるほどに、涙の落ちつつのたまふ、「昔、四つにて習はし給ひしに、心には入れながら、ほどもなくて、乳母の膝に居ながら、手どもは弾き取りて、音をよく弾き伝へることは、七つよりなむ、『大人の琴の音になりぬ』とのたまひし。これは、大人だに、琴の音をかくうるはしうは弾き立つることは、えせぬものを」と聞こえ給ふ。大将、かくおはするを、本意はかなひぬべかめりと、うれしうおぼえ給ふこと限りなし。
物語の必然として、やはり琴の天才だった「いぬ宮」であった。もはや教育が必要ではないようにおもわれるがそうでもない。このあとも疲れないようにレッスンは続くのであった。シモーヌ・ヴェイユは『根をもつこと』で、民衆に霊感を吹き込む方法はプラトン以来まったく手つかずの状態なんだと言っているが、ほんとは、琴の才能だって霊感の一つなのである。この存在によって、政治やら何やらのことではなく、琴の伝承そのものために親は子のために労働する。天のなす才能は無限定なる物と限定や制約が完全に構成されている、我々がそれ服従する労働も故に完全である、というわけだ。ヴェイユは、雷もむかしは神と地上を結ぶ完全な完結性の表象だったと確か言っていた。
思うに、地震などの自然災害もわれわれに労働を強いる完全性を示すように、我々には感じられているのかもしれない。我々が理由なしに労働しているのはそういう出来事からの「復興」のときだけだ。しかし、そんなおおざっぱな精神では、我々は地震の時に、原子力発電所からいかに身を守るのか、自衛隊はどのように活動するのかという具体的なことを計画する地点にいつまでもたどり着けない。
我々は、だから人生でもなるべく「復興」すら避けようとしている。第二次性徴期の「自然」のごたごたですらそうなのだ。「ドラえもん」というのは、のびた、スネオ、ジャイアンという「3バカ」でも普通に生きられる、「自然」災害以前の小学校の世界を愛でている。第二次性徴をむかえた3バカの世界、受験や職業差別で根性がねじ曲がってゆく3バカにとって、ドラえもんが出すものは非常にやばいものとならざるを得ない。考えただけでも怖ろしいとおもわれるね。だから、いつまでたっても「ドラえもん」は終わらないし、最近は、かれらが「3バカ」であることもやめている模様である。
かく思うわたくしは、――うちの庭に来ている雀たち、かわいいふりしてやってることは集団押し入り強盗無銭飲食であることに気付いた。