小ぐまさんは、その音を聞いてゐるうちに、すつかり、かくれんぼをしてゐるといふことを忘れてしまひました。そして、そつと、机の下から這ひ出して行きました。そして、机の上を見ました。
けれども、その机の上には、真白なナフキンがかぶさつてゐるので、小ぐまさんにも、又、このお話を書いてゐる私にさへも分らないのです。
すると、そのナフキンの下から、小さな声がしました。それは、
「私は、お月様です。」と聞えました。
小ぐまさんは、それを聞いて大変よろこんで申しました。
「ナフキンの下にいらつしやるお月様、どうぞ、よく光つて、このくらいお部屋を明るくして下さい。」と申しました。
すると、ナフキンが、ピクピク動いたと思ふと、ナフキンの下から光がさして、お部屋が明るくなりました。
――村山壽子「かくれんぼ」
中上健次の都はるみ関係の文章とか対談を大体よんだけど、中上が都はるみのすごいところを一生懸命遠慮がちに共有しようとしているのに、柄谷とか三田とかどうしようもなくノリが悪くてだめだな。二人の反応はとくに学校で習ったことを答える受験生みたいなかんじだ。率直さというのは大事だ。それは小説的知性というべきものではなく、知性そのものなのである。蓮實重彦氏がむかし小林秀雄は人を褒める段になると急にだめになってみたいなことを言ってたような気がするが、いまその志賀直哉論を読み直してみると、トーンとしてただ褒めているのとも違う。これに対して、柄谷氏の方がトーンとして中上を褒めている気がする。だから、柄谷氏は三田氏なんかの対談でもトーンでやってしまったりできたわけだ。
このトーンというものは、むかしプロレタリア文学で問題になっていた、外在批評に近いものがある。内在批評に対するものとし重宝がられ、たとえば青野季吉氏の批評なんかでも、レーニンのトルストイ論が参照された。その場合、使われる「反映」というものは、個人の作品のなかになぜだか個人ではなくその時代の矛盾とかが現れ出てしまっているもので、その反映自体は、なんかものすごいものであった。トルストイやレーニンの意図とは関係なく働くものである。これに対して、その「反映」を指摘してしまう「外在批評」はトーンである。