子曰、導之以政、斉之以刑、民免而無恥、導之以徳、斉之以礼、有恥且格。
法の支配によって恥知らずが増えるというのは、たしかにいまの日本をあらわしているようではある。法の抜け道ばかり探している政治家が法の支配を言い立てる。これは当然の現象である。大学生の頃、「ビバリーヒルズ高校白書」というのがテレビでやっていて、ドナ・マーティンという女の子が校則違反か何かで退学?になりそうなのを学生がデモをして助けるみたいな話があった。そのときに主人公の男の子が「校則は破られるためにある」とか言っていたのをおぼえている。詭弁のようにもおもえるが、校則はそれが存在するために殊更に破られてしまう、みたいな意味であれば分かる気がするわけである。このドラマ、最初から、我が儘放題に育ってそれゆえ病みつつある若者たちが、規範とともにどう生きてゆくかみたいなのがテーマだったと思う。思春期の悩みみたいなテーマじゃなくて、欲望と失敗と規範との関係を描いていたところが面白かった。だから人気が出たんだと思う。
日本の場合は、その規範がもっと外在的であるという特徴がありそうだ。だからありがたくもあり、本当は信じてもいない。法律や規範がマレビト的に機能する。たぶん私の周囲の学生だけではないと思うけど、コロナ禍で対面でのかかわりが減ったら、男女の集団的な断絶がみえるようになった。女子と男子に別れてしまって、これだとジェンダー的なトラブルも多くなるし、特に女子が男子をバカにするみたいな現象がおきがちにみえる。こんな小学生的な分裂が起きるのは不思議であるが、「大人の対面の付き合い」が、ジェンダー的な硬直化を進めると同時に中和していたと言わざるをえない。対面での付き合いがないと、これまたジェンダー論の新たな倫理みたいなものも外在的に働くことがない気がする。
大谷やヌートバーへの騒ぎをみていると、かれらもやはり一種のまれびとで、もっというと正月や盆に帰ってくる我々ではない何者かであって、案の定、大谷は人間じゃなくて未来のアンドロイドみたいなことを誰かが言っていた。はじめはイケメンでかわいいからだと思っていたがそうじゃない。王や力道山がそうであったようなものであろう。