齊人歸女樂。季桓子受之。三日不朝。孔子行。
魯の隣国齊が美女軍団を送ってきたら、魯の季桓殿はそれを喜んで政務を三日放棄してしまった。で、孔子は立ち去った。魯は孔子のおかげで力を付けていたのに、美女作戦に引っかかるとはなんと愚かな、とここを読んだ読者は思いがちであるが、そんな季桓を見捨てることなく説得してなんぼのような気がする。だいたい、中国は美女如きに傾国の責任を負わせすぎなのである。そんな程度で国が傾くはずがない。あるいは、一日責任者が命令を怠ると国が傾くくらいに繊細にできている国はかなり問題があると言わざるを得まい。
戦乱の世は確かに苦しいのであろうが、中国や我が国に限らず、進んで戦国時代に突入していったのは、それが誇りとか自由と何かつながっていたからであろう。為政者や官僚の側からみた民衆は平和を望んでいるようにみえる。しかしそもそもそうとは限らない。硬直化した国では、嘘がはびこる。それは理念が自分たちを縛っているような錯覚を起こすからでもあるが、同時に人々自身も空疎な理念でしか生きられなくなっているのである。できもせんくせに要領よくやったふりをしたりと、とにかく精一杯やってないと、人間見栄があるから「必ず」嘘をつくようになるのだ。極端な嘘つき病のやつをのぞいて、嘘まみれの社会をどうにかしたいんなら道徳じゃなくて精一杯やる風潮をとりもどさなきゃならないが、たいがい、国の秩序は道徳的理念でおさまったりするものだから、その理念へ矛先が向く。そして、辛うじて理念で保たれていたものまで破壊されて、人々は自由とともに拠って立つ大地をも失うのである。
我々が物事を理念の反映物として捉え、自分に即した理念(夢)をもてば自己が肯定するかのような錯覚を持ちがちなのは、大谷氏をなにか夢の実現――夾雑物を排除した物体のようにとっているところからもみえる気がする。大谷さんには会ったことがないので何とも言えないが、彼が明朗闊達でちょっと子供じみてさえみえるのは、褒めて育つ的な風潮やZ世代の特徴でもなんでもなく、普通に推測してずっと野球のことを考えて実行している成果にすぎない。
大谷氏を物体化している我々は、同じように理念と自己を等号で結んで肯定しようとする。勝手にしてもらったらいいが、自己肯定ばかりしている群れは大概殺し合いするんじゃねえかなというね。。。我々が大谷氏になるためには様々なことに『勝利』しなければならないからだ。
サザエさんの第一巻をよむとときどきどうして面白いのか分からない箇所がある。二人の紳士が「戦時利得者はだめだ」「道義地に墜ちた」といいながら、ある農家のおばさんにめをつけて、闇米をせしめようとする。サザエさんが後ろで「けしからん」と怒っている。ここには、エゴはあるが嘘はない。