★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

戦いよりも説教を

2023-03-26 23:15:46 | 思想


怪獣にはヒーローが立ち向かう。しかし、ヒーローが怪獣に説教することはない。

子畏於匡。曰、文王旣沒、文不在茲乎。天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也。天之未喪斯文也、匡人其如予何。


なんだかわからん敵に囲まれてもさすが孔先生は動じない。自分は天によって道を伝えるために生かされているからであった。いまなら「うるせえ天ってどこだよ、宇宙かよ」と熟考しない暴れん坊によって命を取られるところである。いや、――というよりも、まず孔子は「新興宗教だ、はやくころせ」「孔子の言ってることにはエビデンスがない」みたいな馬鹿馬鹿しいことをほざくSNSの大衆によっていびり殺されているであろう。まず、ならず者に対しても対面授業を行う孔子はさすがだ。これが授業である所以は、この場面、

文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、なんで、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何ができるというのだ」(下村湖人『現代訳論語』)

と、内容を置いとくと、ほとんど授業の発問にみせかけた誘導であるからだ。うちの為政者みたいに、大した根拠もなさそうなことは、空疎な理念だけを声色つかってしまう輩とは大きな違いである。政治が授業であることが不可能になったことはほんとに深刻なことで、この前のアウシュビッツにしても原爆にしても、表象不可能性みたいなことを言う人文学者は、その実、圧倒的な事件に酔っているにすぎず、――その陶酔こそが政治の死滅だったのである。同時に、授業の死滅でもあることは言うまでもない。

言葉は、その表象不可能性に近づこうとして、空疎なものにもなったのかもしれない。大江健三郎の二面性――政治の言葉と文学の言葉があまりにレベル的に乖離しているようにみえるのは、その事情に正直だっただけだ。だから、大江は、空疎化した言葉をそのつど文学に差し戻す。しかし、それはそれで表象不可能性を解消したわけではないから、そのつどその空疎さにも回帰しなければならない。それが我々が陥った現実だからであって、知識人を孔子と同じく先生とみなしている大江はそれを一人で演出する必要があった。

うえのような背理の演出は、民主主義みたいな理念においてだけでなく、家父長制みたいな負の言葉においても起こっている。パパママに生活の世話させてきたせいなのかそうでないからなのかいろいろ理由はあるのであろうが、――結婚したらお互いを小間使として扱いそうなやつが多いのは、おそらく家父長制を批判しているうちに全員が家父長的になっている現象にたいして我々の言葉が追いついていないからである。そこは文学の仕事である。しかし、だからといって、家父長制批判によって得られた成果を捨てるわけにはいかず、いまも有効に決まっている。

この前みたんだが、一人も取り残さない(SDGs)みたいなことを言っている人間が考案した紙芝居を。もう完全に戦時中の「翼賛一家」だったというね。。。。これも同じ現象である。