★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

地下茎と草

2023-03-20 23:34:02 | 思想


季康子問政於孔子曰、如殺無道、以就有道、何如。孔子對曰、子爲政、焉用殺。子欲善而民善矣。君子之德風。小人之德草。草上之風、必偃。


ネットで面白おかしいときに『草生える』と言うけど、――もうさんざ言われていると思うが、論語で、民の徳は草だ君主が風を吹かせて靡く、と言われている。これは別に偶然の一致ではなくて、ほんとに我々は草みたいなところがあると思うのだ。人間関係は地下茎のようなものだ。そのくせ、個体で運動している風を装っている。大勢には靡いてイルだけでそれだけだ。たぶん、靡くのは乗じて子孫を増やすためである。

時間と空間は、地下茎と葉っぱみたいなものかもしれない。今日の「現代の音楽」は東俊介氏の「物体」が放送されていた。音楽の時間性を物質性に還元出来るかという音楽で、たしかに27分間聴いていると、なにかの物体が見えてくるようである。時間に従いすぎたメロディーが我々を時間を恰も実体であるかのように錯覚させていたのかもしれない。これを三回続けて聴き、私はカントの「純粋理性批判」を想った。――それは冗談だが、なるほど文学でも狙いはある種の時間の凍結である場合がある。そこで、我々にとって重要なのは、時間をかけて形成される地下茎の人間関係ではなく、葉の実体のあり方であることを思い知るのである。その意味で、文学は、もともと物自体への接近みたいな行為に近い。

しかし翻って考えてみると、東氏の音楽からも却って時間の重大性を我々が知る気もしないではないのだ。

家族と庭の蛙とどちらにも我々が優しくしようとする場合、時間は止まっている。

佐藤光氏や宇野重規氏の、大平正芳の政策研究会への記述を読んだ。こういう政策研究会に可能性を感じる人は大平の突然の死で志半ばで、、みたいに書いてしまう傾向があるけど、なんか哲学自体を変えないとどうにもならんのじゃないかという感じがする。大平をはじめとする未来志向型の「近代の超克」は、我々が時間を止めて、妻と蛙を等し並みに観るみたいな境地を無視している。なにかSF的な「田園都市」があるかのような。。。近代の体系的な繊細さが誤解の大きさによって悲惨さを導くのなら、博く分散された記述で全体として弥縫的に一大事を避けるというやりかたがあるが、頭がよくないといけない。我々は国家レベルの政策の形でそれをなしたことはないと思う。わたくしがSDGsのパッケージ集に懐疑的である所以である。

昔はよかった。なぜなら若かったから様々なことについて、ばーかばーかと言ってれば済んだから。厭なこともいつの間にか忘れたのであろう。しかも、このときに人間関係が介在しなかった。わたしは大学4年まで下宿の共同電話しかつかってなかったが、自分の部屋に電話がついた大学院の頃から人生が狂った気がする。携帯電話も人生を壊したが、部屋の電話からその破壊ははじまった。とにかく自由がなくなった。自由には時間の停止が必要だ。鬱病からくる自殺念慮なんかも、このことと関係があるきがする。院生時代のことを考えてみると、一番の敵は疲れだったと思う。私の場合は、大学の時の忙しさの疲れが案外残っていたような気がする。我々は文学をあつかっている癖に、作品を読むときにのみ時間を止めているだけの、地下茎の活動をやめない草になってしまった。

昨日は、映画「ウィンターズ・ボーン」を観た。ここには、時間が止まったアメリカの故郷があった。麻薬の製造を隠すことで絆を保つ協同体は、先に進むことを許されていない。しかしそれが地獄であり慰安なのである。