季康子患盗、問於孔子、孔子對曰、苟子之不欲、雖賞之不竊。
君主が欲をもつことがなければ、下々は盗みをしなくなるであろう、と言わなければならない現実はどんなものであったのか。君主が駄目だからそれをしもじもが模倣しているのだ、だから君主が正理を示さねばならぬ、――これは君主に向かっての倫理であって、むしろ、君主の権威が失墜しとにかく下が言うことをきかない状況を推測した方がよいと思う。君主がだから、下々の下品さを模倣してしまうのである。
孔子そのものがその下克上的な雰囲気故にでてくるということはあるわけだろう。法や政が表面上機能しているようにみえてその実、命令主体が逆転している場合である。下々の堕落を模倣しちゃ駄目だと、孔子は言っているように思われ、しかもそういうことを君主が自覚まず自覚するのではなく、下々の一部である部下が言うことに意味がある。命令主体が君主にないことを逆手にとった作戦である。
民主主義は、しもじもがみんな孔子になって(しかも主権=君主はその孔子である)、暴走する君主をとめようという作戦であったが、みんなが孔子のせりふを口走りながら悪を行う自意識をもった君主のつもりになってしまい、実際君主ではないから鬱屈しつつ、選ばれた当然君主はその自意識を解放して欲望を解放するただの悪になった。我々が古代中国人とあまりかわらない人間である限り、当然の結末である。
「聖人と人はいへども聖人の同列ならめや孔子はよき人」(宣長)
たしかに、よき人でないと、孔子のような偉そうな態度は通用しない気もする。