子曰、不患人之不己知、患己不知人也。
木曽町の水無神社には、中山道から逸れて駒ヶ岳にむかって歩いて行くと参道に行き着く。で北方向に伸びる参道を歩いて境内に至って駒ヶ岳の方を振り返るとすごく壮大にみえるわけで、水無神社がなぜあそこにあるのかは、街道からそれてそこに行き着く行程のすばらしさからも決まったのではないかと思っている。
こういうことは、いろんな神社を巡った結果、なんとなく感じられたことではあるが、別に神社と駒ヶ岳が教えてくれたわけでもない。だからといって、私が知ろうとすれば知れるわけではない。ほんとはどうだか分からないからである。
それはともかく、人は大概、外に通じる道(街道)と、外ではあるが人間界ではないところの外への道の、分岐点に立っている。これは、形而上と形而下の話ではなく、どちらかと形而下の話である。わたくしの実家は偶然だろうがそういうところにある。
「南京の基督」はすごく構成がリズミカルで、芥川龍之介の創作の運動神経の良さが現れているが、結局舞台が私娼窟であることで現実以上のものを原理的に呼びつけてしまう。こういう構造が気に入ってしまえば、世の中は私娼窟だといいつづけなければならなくなる。そもそもキリスト教がそういうところがあるが、芥川龍之介は身を以てそういうことを書き続けた。
金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに来た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外国人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯気の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然旨さうな料理を運んで来た。彼女はすぐに箸を挙げて、皿の中の珍味を挾まうとしたが、ふと彼女の後にゐる外国人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、
「あなたも此処へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい声をかけた。
「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病気が、今夜の内によくなるから。」
円光を頂いた外国人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。
いったい、この外国人が基督であると言えるかどうか、といえば、言える場合もあるのだ。外国人は、相手の金花をなんとも思っていないのであろうが、彼女の方は基督だと思った。相手の外国人に恋をしていたからである。「不患人之不己知、患己不知人也」(人に知られないことは恥ずべきことではなく、人を知らないことを恥じるべき)とは、こういう場合には疑えない真実となる。そうでない場合は、勉強の強制である。