★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

琴の音

2023-03-05 18:01:12 | 文学


今は、長雨がちなり。静やかに降りて暮らす日、時鳥かすかに鳴き渡り、月ほのかに見えたり。 三所ながら静かに弾き合はせ給へる、いとおもしろし。 こなたかなたの人は、泉殿に出でて聞く。殿の人々のなかに、もとよく琴習ひたる、あまたあり。いづれと聞き分き奉らず。今、手の限りを尽くして弾きとどめたる、折につけつつ、琴を替へて弾き給ふ、静かなる音、高う響き出で、土の下まで響く音す。 あはれに心すごきこと限りなし。

宇津保物語でいぬ宮が生まれながらにして琴の天才だった場面、分かっていても泣けるというか笑える――というか、日本の自然が素晴らしい。琴の音は「土の下まで響く」のである。これは我々の社会を根こそぎ揺るがす音であって、だから「あはれに心すごきこと限りなし」なのである。

「國譲」の巻――誰の子どもが皇太子になるか、自分の子がならなかったらいっそ死にますみたいなうめき声の争いの場面が異様に長いのは、これは一種の青筋立てたボケだからであろう、「楼の上」のいぬ宮ちゃんの琴の話になって一気に空気が澄み渡る。宮中は一部人間であることをやめて琴の音みたいになりたいひとたちで溢れかえっていたのだ。

マスコミによくでてくる研究者の特徴ってなんだろうと考えたことがあるが、「研究者」であって文学者とか哲学者とはちがってることは確かだ。小説家とか詩人でもマスコミに乗ると「研究者」っぽくなる。結局、琴の音についてのコメントを流通させる人間と、琴の音を生み出す人間の違いなのである。研究者でも学者の時代は、学問は一種の琴の音であってコメントではなかった。この前、老人は集団自決すべきと言った研究者がだめなのは彼がいかにも「研究者」だからであって、自決が琴の音ではないからである。

「こいつあ旨え、しかし狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」
「大方睾丸でもつつむ気だろう」
 アハハハハと皆一度に笑う。余も吹き出しそうになったので職人はちょっと髪剃を顔からはずす。
「面白え、あとを読みねえ」と源さん大に乗気になる。
「俗人は拙が作蔵を婆化したように云う奴でげすが、そりゃちと無理でげしょう。作蔵君は婆化されよう、婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙がちょっと婆化して上げたまでの事でげす。すべて狸一派のやり口は今日開業医の用いておりやす催眠術でげして、昔からこの手でだいぶ大方の諸君子をごまかしたものでげす。西洋の狸から直伝に輸入致した術を催眠法とか唱え、これを応用する連中を先生などと崇めるのは全く西洋心酔の結果で拙などはひそかに慨嘆の至に堪えんくらいのものでげす。何も日本固有の奇術が現に伝っているのに、一も西洋二も西洋と騒がんでもの事でげしょう。今の日本人はちと狸を軽蔑し過ぎるように思われやすからちょっと全国の狸共に代って拙から諸君に反省を希望して置きやしょう」


――漱石「琴のそら音」


捕縛化

2023-03-05 01:57:19 | 文学


そういえばスイートピーの花よりも、畑一面に作っている豌豆の花の方がうつくしい。同じく鉢植のガーベラの花よりも、田圃路に咲いているたんぽぽの花の方がうつくしい。一つは愛され一つは棄てられている。しかし選んで棄てたものとは思われない、無意識に棄てているのである。選ばれ拾われ愛せられるのも遠いことではなかろう。

――窪田空穂「花」


この「無意識」というのは、言葉によって捕縛されたわれわれのべつのところからやってくるものである。

大正期のプロレタリア文学の評論を読んでると、有島武郎の「宣言一つ」というのはなんだか問題からの逃避のようにもみえる。小説の時みたいな覚悟を決めているかんじが逆にないようにみえるのである。しかし、一般には?、この評論は、その生活をしらぬものが決して見えない、プロレタリアートのみる「世界」の存在を示したことで、さすがの「意識」の所産と思われているのではないだろうか。有島のことだ、このことを言うことで、プロレタリアートとの違いを、プロレタリアートもブルジョアジーも恣意的に引きながら言い訳をする時代が始まったことを意志していないはずがない。白樺派は、アナキズム的だが、幸徳秋水みたいな身に自分を追い込まない方策をも発明した。それにしても宮島資夫というのはなんで出家したんだろう。。。転向問題はそれを深刻に考えたがる人が考えているよりもいつも容易なので、それほど問題にしなくてもよい気はするんだが、気にはなる。わたくしが思うに、有島みたいな人間がいやになったのではないかと思うのである。

我々は、常に個人の区別をしながら物事を運んでいるわけではないが、いざ自分の処世がからむと自己を形成する。遠く小学校時代に、自分の変化する欲望と身体よりも、自己を言語で輪郭化し武装することをおぼえた我々は、つねに危機的な状態に置かれていたからに違いないのだ。第二次性徴でまた言語が役に立たなくなるが、それにしては言語的な研鑽の方が常に行われたのだし、愛着もあるのだ(思春期の頭の悪い乗り越え方の一つである「相対主義」もその一種である。「大人」のせいにするみたいなやつね。。。)言語的なものというのは視覚的イメージもその一種である。これの発達で我々は容易に言語的に自分を縛るようになってしまった。いまや、国家がスローガンを掲げる必要もない。勝手に人民は自分を縛り上げるわけなのだ。

そんなオートマティクな捕縛化のなかでは、「一人も取り残さ(れ)ない」というSDGsの理念は、個人の捕縛化を一層進める恐れがある。そもそも、この理念を言われて喜んでいるのはいままで道徳的に攻撃されてしまいがちな人間の方で、弱者の方じゃない。また巧妙な仲間はずれが始まったなと思うだけだ。そのぐらいの身体的な意識はみんな働いているものなのである。本質的に「いじめ」の問題なのに、人間社会のシステムや政策の問題になっている欺瞞は、みんなが気付いていながら、体が動かない捕縛化のために次々に見逃されてゆく。言語で体が動かなくなると、人間「嘘」をつく意識が希薄になる。

例えば、いじめ論でときどき「いじめる人は軽い気持ちなんです」といじめられた当事者やいじめた当事者が語ることがあるが、よくわからんが、たぶん嘘だ。「軽い気持ち」という言葉通りのものは存在しない。嫌悪感とか腹立ったとかむかついたとかは「軽い気持ち」ではない。十分攻撃的になる意識的理由なのである。というか、換言すれば、何を考えても「軽い気持ち」のやつっているんだよ。そういう人間が「軽い気持ち」といったら、「面白そうだから」とか「いじめたら楽しそうだから」とか「たたきつぶしたかったから」などの意味であることがあるだけである。そして、こういう軽さはいじめられた側だけでなく、我々がいろいろな局面で体験する意識の側面であって、わたしなんかだと物事に熱中しているときの躁的なかんじに当てはまっているような気がする。

「最近**だなあ」と言うと「昔からそうだった」と返されて話が終わってしまうことってよくあるが、これも同様の例であって、きわめてよくない。本当に昔からかというと、大概そうではないし、「最近**だよな」が文字通りの意味でないことも多いのだ。

勉強できる人ってなんか意地悪だよね、みたいな言説がでてくることには個々の異なった理由がある。大概は、ある特定の個人のことを言っているにすぎない。自分が意地悪いことに気づかないタチの人が言っていることも当然多い。また、教育現場で勉強ができることと人がいいみたいなものが対立概念になりがちなのは、相手が子どもだからというのが大きいわけである。そりゃ成績がよい子どもはいい気になって調子に乗る。勉強ができない子は善意で挽回を図る。だからといって、それは人間の本質的な対立ではない。しかし、こういうことは現場の言語的環境がそれを忘れさせる。そもそも教員と子どもの巨大な差異は身体的なものではなく、言語的なものだ。だから、基本的に、子どもに対する定義づけ(と同時に教員に対する定義づけ)みたいなものが武器として使用されるわけである。

しかし、言語的な能力が我々の自意識の安定を支えている限り、それを下げれば現実が見えるかといえばまったくそうではなさそうだ。いわゆる「教員の質が下がる」というのは、かかる抽象的な言い方でないといってはいけないレベルの現実を示している。正確な理解に不安感がつきまとっているから教科なんか教えられるわけがないし、子どもを常に善意で誤解する、自分を守るための嘘をつく、自信がないから偉ぶる、同僚をいじめる、こういうことが、――教員自らの不安感のために起こるということなのである。量的にそういうくだらない世界が増える証拠でもあるのか、といわれりゃそんなもんはない。しかし我々の欲望と身体に照らせば、かならず量的な増大をともなうな、と感じられる。

言語的能力がさがるというのは、具体的には、言語に依存するようになるということなのである。よく殺人容疑者が「誰でもよかった」と言っている。これが文字通りの意味なのか想像もつかない(「誰でもよかった」というのは「**を*したい」よりもある意味殺意の大きさを感じさせないところがあり、どうも言い訳の一つではないかとも思われる――)が、似たような言い方で「どんな子どもでも受け入れる」と言う教師がいる。私の経験だと、こういうことを「言」う人は結構残忍な人が多い。そりゃそうだよな、もはや個体差が気にならねえんだから。言語に依存する典型的な事例である。「一人もとりのこさ(れ)ない」理念は、大概の人にとって広いおおらかな心の状態を導かない。悪意と乱暴な言葉と行為にさらされて葛藤に耐えることを示している。我慢しすぎて、つい弱いものいじめに走るのが一番高い可能性であるのは言うまでもなし。

このような「文字通りとってしまう問題」は、一種の症状?として発達障害論でもいろいろと言われているが、――例えば、その一種なのかも知れないが、自分に言われた批判をすべて自分ではなく他人への蔑視に積極的に使うみたいな現象もある。わたしはこういうのは発達障害の問題とは思えない。メタ認知みたいなもので解決できるとも思えない。メタ認知的なものはむしろ自分と他人を等し並みに相対化しがちなのであって、あたかも自分の問題が他人と同じくスルー出来るみたいな感覚を起こさせ、上のような現象となりかねないのではないだろうか。なにか「メタ」みたいな考え方が間違っている気がする。私の経験の範囲内だとそんな気がするのである。「メタ認知」っていうのは、文章の読解の不能、自分のミス、人間関係のトラブルの再考にもつながるけれども、それはたいがい逃避でもあるからその羞恥心から自分に再着陸すべきものだ。が、再着陸だけは絶対にないということがあり得るのである。そこで生じるのが自分には絶対に回帰しない批判である。これは、自分をあまりに世界と区別し相対化したために起こっているのではなろうか。この症状が進むと自分の行ったことでも自分が行っていないような気がし始める。嘘つきのはじまりである。

たしかに、こういう嘘つきは、答えをただアウトプットするだけの勉強によって支えられているのかもしれない。答えが自分とは関係なくてもよいのだから。しかもそれを我々は嘘と感じない。他人がそう言っていたから自分も言うだけだからだ。しかしこれが自分の責任なしに言うこと自体が「嘘」の一種であることが分かるようになるために大学での勉強があるのである。出来もしないくせに「一人もとりのこさ(れ)ない」ようにガンバル、と言ってしまうことも「嘘」である。最悪なのは教育現場に出てく学生がほとんどこういう嘘をつきながら卒業していってるケースが増えてきたことである。卒業論文をみているとそういう嘘が顕著で、つまりはっきりしてないのに「ということが分かった」とか「と考える」みたいな口調で下手するとさいご「これからガンバル」とか書いている。これが嘘つきとみなされないのは「学校」だけだ。(いや、そうでもないから困るんだが)とりあえず、少しでも成長したことが目的化している組織のなかでの話だ。論文の指導要領化というか、なんというか。自分に命令しているくせに、命令を聞く気がない。――本当は、命令が嘘だと自分の欲望と身体が知っているからである。

当たり前であるが、現場というのは、そういう嘘としての勇気の持ち方が案外重要で、そうじゃないと気が狂ってしまうというのがあると思う。しかし、ある種の人間は、いや、誰でもそういう嘘を信じちゃうんだわな、いつのまにか。先生がお山の大将だからというより、実践的な行動につきものの性格だ。これに知の冷や水をかけるのが大学などの役割である。協働とか、ましてや大学自体の教育機関の下部組織化・附属化など、上のような人間の本性をわきまえない狂った意見である。

学校経験のある人間を何割か教員養成学部に、というはなしが一部で話題になっていたが、――小学校教師の家に生まれ、教師のなかの人間関係やら教員の出世欲みたいな話題に触れる機会があったわたくしからすると、あーぁという感じもする話でもある。暴露でも何でもなく、教師のなかには一定数、大学で教えたいという希望を「野心」のように持っている人間がいて、別にだめだとはいわんが、そういう人間が現場でどういう人間であるのか、どんな風に思われがちなのか、例えば附属学校の経験者がどのように思われがちなのか、――そんなくだらない人間的情景を無視してはいけない話なのである。よく大学で、実践家はつい学問ではなく昔話をしてしまうからだめ、みたいな批判があるが、わたくしはそうは思わない。昔話や体験談だって考える契機や学問的な契機として面白けりゃ意義があるに決まっているからである。論文ではない業績が人間そのものにある場合だってあるに違いない(むろん、学問をしていないということは、上記の言語への依存に陥っている可能性が高いわけだからたぶん。。)めんどうなのはそこだけじゃなくて、実践家が大学に対して持たされてしまった複雑感情の問題である。これは非常に厄介な問題で、これを「知的コンプレックス」みたいに言語的に矮小化してはならない。大学が長年にわたって、権力と一緒になって現実に対して、下らぬ「言語的」改革に手を貸してきたみたいに思われているところは無論あって、大学は面従腹背してきたつもりがそうはみえていないのだ。だから、生身の人間が乗り込まざるを得ない、感情的にはそんな感じなのであろう。――この一点取ってみても、事態は簡単ではないことは明らかだ。

我々の世界は、容易な言語への依存で、抑圧された欲望と身体をもてあまし、平たく言うなら、感情的にかなりこじれた社会を形成している。

追記)

言語への依存ということで思い出すのが、野球である。
今日は佐々木朗希投手が、日本人最速165キロをだした。また中日は相手になんかの記録を捧げてんのか、とわたくしの言語への依存が呟く。わたくしの脳裏には、カープの前田2000本安打の歓声が聞こえたし、ネットでみた、私が生まれた頃、江夏にノーヒットノーラン+自分でさよならホームランをやられたドラゴンズの姿も想起されたからである。

そしてわたくしはその依存を一生懸命解くのである。――そういえば、たしか岸信介が安保の時に「デモ隊よりも後楽園の客のほうがおおいだろ」とかいってたと思うが、それは巨人ファンという日本の高度成長を支えた羊人民たちのことであって、金田の完全試合の時になんか暴動起こして審判を半殺しにしかけた中日球場のファンのことではない。