昼間は異分野種研究者研究会で神谷之康氏の「再現性の科学:脳科学は実世界で役に立つか」というスライド資料をつかって勉強。Σ記号とか∫記号とかを久しぶりに見たが、要するに、文字に文脈によっていかなる意味が宿るのかみたいなことをテキストの空白性や虚構性が現前してくることにある種怯えながらうじうじ考えている我々の業界に対して、再現性に漸進して不正を許さぬようにガンバル精神はいわば「主体的」なのだ。なるほど、いまの世の中の「主体性」への要求とサイエンスの隆盛はどこかしら関係があるのかもしれん。
その後、「華まる」さんで優秀な物理学者の送別会があり、焼き鳥がなかなか美味であった。そこで思い出したのは、論語の次のせりふである。
子在齊聞韶。三月不知肉味。曰、不圖爲樂之至於斯也。
宇津保物語で天下からの何モノかみたいな扱いになっていた音楽は、礼楽のセットで学問と礼儀、つまり政治を構成するものとともにあった。しかしこの世ならぬものでなくなったわけではないと思う。それは三月のあいだ、肉の味を忘れさせるような怖ろしい麻薬的な効果を持つものであった。思うに、詩人や官僚たちが酒を飲んで唸っているのが知識人たちのあれであって、現在のわれわれがそうであるように、肉の味と学問の味には似たところがあるのだ。しかし音楽はそれとも違う何者なのかである。そして、いまでもしばしばその音楽が政治とダイレクトに結びつく。音楽は肉のように対象でも学問のように主体でもなく、閾を超える暴力だからである。それが政治と結びつくのかもしれない。
そういえば、このまえちょっとまともに都はるみを聴いてみたんだが、なんだこりゃすごいじゃないか。引退コンサートの映像も聴いたが、ある意味、都はるみの音楽テクニックのパッションそのものが都はるみの演歌歌手としての肉体や態度を超えてしまっている気がした。こういう元気よすぎてなにか不自然で崩壊を予感させるのは、全盛期のカラヤンや戦時中のフルトヴェングラーや、デビュー二年目ぐらいの松田聖子ぐらいからしか感じたことがない。
音楽は単に暴力的なのではなく、音楽自体が演奏行為を超えて主体的なのである。このことを感じるのは、批評家だと宮台真司ぐらいにしか感じない。氏には崩壊寸前の感じがあり、対して言葉は人を行動に駆り立てるのである。
東京都立大のキャンパスで同大教授の宮台真司さん(64)が襲撃された事件で、警視庁が容疑者の男を容疑者死亡のまま書類送検したことを受け、宮台さんは9日、インターネット上のビデオ映像で「推認」と断った上で「(容疑者は)知識人や学者を憎んでいた可能性がある」と述べた。
動機解明に至らないまま捜査終結となったが、宮台さんは、容疑者の自宅の物置から見つかった「知識人やマスコミが威張り散らし、人を踏みつけにしているのが戦後の社会」などと記されたメモ帳について言及。自身が被害を受けたことについて「(自分の言葉の)何かが彼の心に刺さり、『こいつにしよう』と思った可能性がある」と分析した。
――宮台さん「知識人憎んだ可能性」(https://www.saitama-np.co.jp/articles/17808/postDetail)
最近のデータは消去して宮台氏襲撃の犯人は亡くなったらしい。知識人――大学の先生一般に対する反感から宮台氏を狙うことに距離があって、そこが本人的にも重要だったのかもしれないのである。それこそ推認、というより推測であるが、宮台氏の襲撃犯は宮台氏の言葉に自分の似姿を見た可能性だってあるのだ。講壇哲学でもっとエラそうなやつは他にいる訳だし、なにより「作家は行動する」的な?言葉遣いの宮台氏を狙うのは、意味ありげで絶妙な選択に思えるからである。