子曰、中庸之爲德也、其至矣乎。民鮮久矣。
わたしはもはや中庸といわれておさまるような事態にはあまり興味がない。収まる事態ではなく、その都度違って見える事態の推移に興味がある。
谷間から眺める空が非常に広いことを平野にいると忘れる。空より地面の方が広い気がするからでもある。平野での空はなんとなく虚無である。「壺中の天」のエピソードは、壺中のなかに酒が楽しく飲める別天地があった話だが、もともと我々が壺中にいるとすれば、別天地はその外部であるはずだ。しかし、「後漢書」方術伝の話は、そうなっていない。壺中に天国があると思っている。彼らは平らの民に違いない。元稹は「壺中天地乾坤外。夢裏身名旦暮間」といって、人間界には壺中の天地はないんだ、人間のみる夢(名声)など朝夕の間だけだ、と言ってるが、――翻って、人間の名声の世界をむりやり壺中の範囲内で実現してしまおうとする人間がいることと裏腹の認識である。そりゃ、お前は夢心地でいい気になっているだけだ、といわなければならなかったわけである。
彼のような説教は、うまく機能しない。このときに「中庸」の教えがいきる。中庸にこそ世界がある。それは夢でも陶酔でもないかも知れないが「徳」の世界である。それは、酒の陶酔、名誉のような名声の快感を否定せず、だからといって、世の中での忍苦を肯定するわけでもない。それが徳として機能する世界があるとしたら、快と苦のあいだの世界を解釈して再構築してしまう世界である他はない。
絵心経風に書かれている『サザエさんうちあけ話』は大変な傑作であるが、絵文字やスタンプがなぜつまらないのかわかった。絵の横に文字がない、あってもすごく単純な言葉なんで意味がほんとつまらなくなっているのである。あと絵同士の意味のつながりもスタンプや絵文字は形が決まってるんで無理である。文章も絵も、上の解釈されたものとして作り直されたもののみが、徳の世界をつくる。案外、サザエさんはそういう境地に達しようとする話だったかもしれない。