★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

孔子の家族と長谷川家

2023-03-31 23:05:56 | 思想


葉公語孔子曰、吾黨有直躬者。其父攘羊。而子證之。孔子曰、吾黨之直者、異於是。父爲子隱、子爲父隱。直在其中矣。

羊を盗んだ親を告発する子が「直」(正直)なのか、親の罪を隠すのが「直」なのか。孔子は、私の田舎では後者なんだが、と言う。孔子はむろん、前者が正直な反応になりうることは分かっていたと思う。なにしろ、法の支配とか言うてた方が人間は楽だからである。しかし、支配が人間ではなく完全に法の下に行われていると思いたいのが我々ではあるけれども、法の支配はその実その法を支配する人間の支配であり、これには我々は耐えられない。それで、法をいじくり回してますます細分化した法を作り、支配者の支配を強化して自分の首を絞めてゆく。それをさけるためには、家族によって、法の毛細血管への侵入を防ぐことが大事なのである。

「サザエさん」の長谷川町子の家族が、途中から母をゴッドマザーとした会社(姉妹社)と化していたことはいろいろ毀誉褒貶ある。『サザエさんのうちあけ話』や妹の長谷川洋子氏の『サザエさんの東京物語』を読んだ限りだと、その女だけの帝国には、母・姉・町子・洋子のそれぞれのボス気質のぶつかり合うものすごい世界であったと思しい。洋子氏は、父から自分にいたる「暴力の連鎖」があった、と書いている。

洋子さんが数学科に行こうとしたら、長谷川町子が「国文科にしなさい。国文科。女らしくていいじゃない」と言ったので洋子さんが「いやよ国文科なんて。面白くないし、辛気くさいわ」と言い返した場面がある。茶を吹いた。結局、洋子さんは国文科に行かされたわけだが、在学中に、菊池寛に作文を見てもらったら「大学で学んだことなんか何の役にも立たないよ」と言われ、大学を中退させられ文藝春秋に入社させられる。ほんわかと書いてあるけど、サザエさんも寬も人の人生なんだと思っているのだ。あと国文に対する恨みでもあるのかと。わたしも国文に行っても就職がないとか、いろいろな人に言われたものだ。偉くなった人だけではなく、なんとか平穏を手にいれた人間というのは、自分の人生における選択を勝手に肯定している。偶然の重なりだと言うことが失敗していない人間は分からないのだ。

それにしても、この長谷川さんの家、――元九州の士族、男は戦争や病気で早世、女性のみの家族で、「サザエさんうちあけ話」でも、その家族はどこにもない国のそれのようにどこか浮遊感が漂っている。クリスチャンであるのも関係あるんだろうが、かかる人間が描く「サザエさん」の浮世離れみたいなかんじは面白い。もう、連載当時から、どこにもいない家族をみているような感触を読者が持っていて、それがなんとなく大ヒットに繋がったんじゃないだろうか。大塚英志の言う、戦時下の都会的=「翼賛家族」的な延長であることももちろん関係はある(――ちなみに、その「翼賛家族」もある種の理念であって、どこか浮世離れしているのだ)が、それだけではあるまい。今回、戦時中の長谷川町子の「愛国婦人」みたいな雑誌に載ってる漫画もかなり読んだけれども、彼女の漫画の浮世離れした感じは当時からあるね。手塚治虫の浮世離れとはまたちがったものだ。前者は、翼賛家族の持つ浮世離れから生じた浮遊感であり、後者は、戦争そのものから来る浮遊感である。

そして、戦争が終わってから始まった「サザエさん」は、戦後の社会への違和感をどこか持っていて、ますます引き籠もり的なニュアンスを帯びて「家族」の物語であり続ける。ここで孔子の言う「家族」による防御が働き始める。いまとなっては、ほぼ「サザエさん」の家族とはユートピアの代名詞になってしまった。

ちなみにわたくし、有名なことなのかもしれんが、サザエさんのサザエは、志賀直哉の「赤西蠣太」の今江(さざえ)からきてることを教えられた。ああそうか。。。。