二十五六日のほどに、西の宮の左の大臣流され給ふ。見奉らむとて、天の下ゆすりて、西の宮へ、人走りまどふ。いといみじきことかなと聞くほどに、人にも見え給はで、逃げ出で給ひにけり。「愛宕になむ。清水に」などゆすりて、つひに尋ね出でて、流し奉ると聞くに、あいなしと思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし。あまたの御子どもも、あやしき国々の空になりつつ、ゆくへも知らず、ちりぢり別れ給ふ。あるは、御髪おろしなど、すべていへばおろかにいみじ。大臣も法師になり給ひにけれど、しひて帥になし奉りて、追ひくだし奉る。その頃ほひ、ただこのことにて過ぎぬ。
身の上をのみする日記には入るまじきことなれども、悲しと思ひ入りしも誰ならねば、記し置くなり。
蜻蛉日記の中でも心に引っかかる場面の一つである。源高明左遷の場面である。『今昔物語』の巻第二十七第三に「桃園の柱の穴より児の手をさしいだして人を招きし語」がある。高明の神殿の柱の節穴から子どもの手が出て招くので、仏画とかお経とかを掛けてみたがいっこうに手招きが止まない。で、矢を打ち込んだところ止んだのだ。仏より矢が効くとはな……と人々が疑った、という話である。なんとも不気味な話で、仏をも脅かす人間たちの力をそれとなく示し、左遷事件の内実を想像させるのである。
光源氏のモデルとも言われたことのある高明であるが、――とにかく藤原氏と仲が悪くなり策謀によって流されたのはみんな知っていた。というか、どうせ流罪というのはそんなところだろうとみんなが思うのであった。そのあやふやな感じが、周囲の心を打つ。高明を追放する決断を行った人間たちは、それどころではなく、複雑な人間関係をあちこち調整した結果にすぎなかったのであろう。原因は本当はよくわからないのだ。だから誰しも決定的な役割を果たした人間に対する懲罰をどこかでやったふりをしなければならない。本当は、蜻蛉さんだって「悲しと思ひ入りしも誰ならねば」と言っている理由は、私の悲しみは自明であるからわたしの日記に書いてしまうわよ、――という方便を用いて「あいなしと思ふまでいみじう悲しく、心もとなき身だに、かく思ひ知りたる人は、袖を濡らさぬといふたぐひなし」という大きな悲しみ、つまりこの事件を引き起こした人間たちを文字によって詛っているのである。源氏物語もそうだったのかもしれない。平家物語は恨みの連鎖が蜘蛛の巣のようになってしまったから、ちょっと感情がパンクしている模様であるが、もともとの創造の種は恨みであるはずだ。
いまはこんな感情の処理をやらなくても済むように、責任者というものが設定されている。しかし、だれもその責任をとろうとしない。責任とるとは簡単なことで、皆の目の前から去ることである。何でもかんでも守り抜くとか言い続ける口先野郎でい続けることではない。3密だとか、新しい生活様式だとか、新たな日常とか、――スローガンで政治をやろうとする頭の悪そうな感じに眩暈がしてくる。戦時中のものとは違い、感情的ですらないスローガンは我々を縛るだけの目的で使用されている。
感情の主は私なので書くのだ、という蜻蛉さんの宣言は、大きかったのであろう。我々が「みんなの感情」の世紀をいよいよ生きつつあることから振り返っても感慨深いものがあるが、蜻蛉さんレベルの「私の感情」という、この決意だって、我々には大変なことなのだ。
昨日から、ルソーの「告白」を久しぶりに読み返しているのだが、やはりこっちは「私」のあり方がかなり違う。彼は、いままで成し遂げられたことのない「私」という偉業を試みる、最後の審判のときに「この書物を手にして」審判者の前に出てやるぞ、と言っている。「私」とは「書物」である。
「わたしひとり、わたしは自分の心を感じている。そして人々を知っている」
人々の悲しみを私も知っていると述べている蜻蛉さんとは大きく違う。ルソーのような男もいないわけではないのだが、日本ではだいたいそういう男は超がつく馬鹿の場合が多い。