もしやと戸の外に出でて見れば、銀河影きえぎえに、氷輪我のみを照して淋しきに、軒守る犬の吼る声すみわたり、浦浪の音ぞここもとにたちくるやうなり。月の光も山の際に陰くなれば、今はとて戸を閉て入らんとするに、ただ看、おぼろなる黒影の中にありて、風の随來るをあやしと見れば赤穴宗右衛門なり。躍り上がるここちして、「小弟疾くより待ちて今にいたりぬる。盟たがはで来り給ふことのうれしさよ。いざ入らせ給へ」といふめれど、只点頭て物をもいはである。[…]左門云ふ。「既に夜を続て来し給ふに、心も倦足も労れ給ふべし。幸に一杯を酌て歇息給へ」とて、酒をあたため、下物を列ねてすすむるに、赤穴袖をもて面を掩ひ其の臭ひを嫌放るに似たり。左門いふ。「井臼の力はた款すに足ざれども、己が心なり。いやしみ給ふことなかれ」。赤穴猶答へもせで、長嘘をつぎつつ、しばししていふ。「賢弟が信ある饗応をなどいなむべきことわりやあらん。欺くに詞なければ、実を持て告るなり。必ずしもあやしみ給ひそ。吾は陽世の人にあらず、きたなき霊のかりに形を見えつるなり」。
目の前に映るような場面である。「吾は陽世の人にあらず、きたなき霊のかりに形を見えつるなり」と言ってくれるが、「きたなき霊」というのは、どこか左門が出した食事を臭がる宗右衛門の姿を反転させたようで、ほんとうまい記述だと思う。「氷輪(月光)我のみを照して」いたのだがそれも山の陰に入ってしまった。つまり、左門も陰の人間となったのであり、宗右衛門と同様に「陽世の人にあらず」。
最近の漫画なら、左門の家の周りはもはや妖怪だらけであろう。
先日、実家から、子どもの頃聴いていた「東京子どもクラブ」のレコードが全て送られてきたが、そのなかに「ユリヤとラトス」があった。「走れメロス」として知られているお話である。小山田宗徳の素晴らしい朗読で、わたくしはまだこの録音を完全に暗記していたことに気付いたが、レコードの傷の位置まで覚えていたのだから幼児の頃の記憶というものは怖ろしいものだ。――それはともかく、友情のためにユリヤがラトスの所に駆けつける場面は、日が暮れかけて死が訪れるかと思いきや、そうではない。黄昏はむしろお祭り騒ぎの生の出現する場所である。これに比べて、上の話は同じ友情の話なのに、友人が死んであらわれる。
どうも、我々は、生きて会っているとそのまま喧嘩わかれしやしないかと思って、ずるずると会わずにいると、知らないうちに相手が死んでしまうことが多すぎるような気がする。私は親とか家族より友とはやく会っておいたほうがよいと思うのだ。最近は、友とはオンラインですまし、宗教的習慣に過ぎないような親と逢瀬を強制する向きもあるが、まったく間違っておるぞ。
そもそも我々は、親と友の区別が曖昧である。友と結びつきは、何か俗世でないものによってインパーソナルなものとして結びつけられていなければならない。家族にやたら頼るようになったことと、日本で社会と政治が成立しなくなったことはまったく同じ事態を示しているのである。