此自由極楽のこゝちして。たのしみけるに。鼾出し時。女小声になつて申は。自是なる御かたの。手掛者なるが。明暮つきそひて。氣づくしやむ事なし。御目の明ぬうちの。たのしみに。かくし妻にあふ事。見ゆるして給はれと申。言葉のしたより。是を息ふけば。十五六なる若衆を出し。最前申せしは。此かたと手を引合。そのあたりを。つれ哥うとふてありきしが。後にはひさしく。行方のしれず。老人目覚たらばと。寝がへりのたびたびに。彼女を待兼つるに。いつとなく立帰り。若衆を。女呑込ければ。老人目覚して。此女を呑こみ。はじめ出せし道具を。かたはしから呑仕舞。金のこなべを。ひとつ残して是を商人にとらし。両方ともに。どれになつて。色々の物語つきて。既に日も。那古の海に入れば。相生の松風うたひ立に。老人は住吉のかたへ飛さりぬ。
まるでマトリョーシュカのように、老人の息から美女が、美女の息から美男子がとびだしてくる。しかし、美女以下がそこにいるのは老人が寝ている間だけである。最後は金鍋を残して老人はどっかに飛び去った。
不思議な話であるが、後味というか、あとには何も残らない。人間の不思議さには到達しない話だと思うのである。
人間は変形するが、マトショーシュカではない。徐々に変形してゆくことと、越境みたいなふりをするのはかなりちがうことで、アカデミシャンはしばしば変形を拒否するためにジャンルを越境する。刺激を受けましたと言って自分の巣に戻るのだ。アカデミックマトリョーシュカである。
我々の心はどこにあるのか、いろいろな人が、脳の一部にある、社会にある、時間にある。とさまざま述べてきたわけであるが、物語や小説によって心が生じることを考えると、時間かも知れない。変形する肉体と時間が心を生み出す。だから、記憶をAIに任すなどというのは、現実に即していない考えではなかろうか。そもそも、AIにかぎらず、――テクノロジーが設計的だと我々は思いがちかもしれないが、恐竜が胃石をとりこむみたいなもんで、われわれがひたすら優れて動物的になりつづけるだけであろうと思うのだ。固いモノを手に入れた動物がどうなるかということが起きてきただけである。
美術史は模倣の歴史である。美しい画の系列が、黙々たる信頼感によつて打ち続く有様には、驚くべきものがある。美術史を、どんなに遡つてみても、独力で自然から描いた画家なぞに出会ふことはできない。初めに人真似があつたのである。
――小林秀雄「金閣焼亡」
最近、AIの描いた絵画が、入選しただとかいうのがニュースになっていた。それ自体はありうることだ。これからは小説がそういう目にあるに違いない。AIはそういう生産をすることができる存在である。対して、人間は、「美術史」を形成する動物である。小林が言うように、「模倣」「人真似」をするのだが、それは言葉で言うとそう言えるだけで、本当は模倣など出来ない。そういう行為の時間が変形してゆく歴史をつくる。
それを文学などは歴史をまたず発展をとげようとして、自らの中の弁証法的発展(自意識)をたきつけるのである。三島由紀夫の切腹は文学者の自意識を否定するように思えるけれども、実際はそうでもなくて、切腹は近代文学的だったとみるべきだ。透谷も眉山も芥川も切腹したのである。その「死」は「生」を生み出す。これも弁証法である。
思想家や批評家の価値はどれだけすぐれた後継者がいるかによるんだみたいな意見もあるだろうけれども、優れた者はいつも少数なのだ。どれだけの大量のカスを生み出したかということも考えないわけにはいかない。一生懸命考えなくてもいいけど少しは考えとくべきのような気がする。例えば、吉本隆明なんて、彼の書いたものからこれからもいろいろ『発見』されると思うが、一方で、彼の情況への発言の口まねで、大衆は我にあり大学人はかくも馬鹿だ早く死ね、みたいなことを言い続けている吉本チルドレン(もう年を食っているはいるが子どもである)はかなりたくさんいるわけであまり無視は出来ない。思うに、吉本も湾岸戦争とかオウムとかのあたりでかなりファンに逃げられていたが、もう少しちゃんと嫌われた方がよかったのだ。一度焚書されてからが真の復活だ。三島はよくそれを知っていたのである。つまり大量のカスを一度振り落としてから真に読まれ始めるのが、優れた作者である。たぶん漱石や鷗外もそうだった。読まれるとは限らんのが悲しいところではあるのだが。。
同じ事だが、作家を同時代に還元する手続きは優れた人がやらないと、作家のカスな側面を人工的に抽出しただけで終わる。人気が出たというのは普遍性があると同時にだれでも書きそうなことも書いてたみたいなことでもあるんでね。。人のこといえんけど。