やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。
理由はよく分からないが、人生と我が文化風土のおかげか、なんでこいつが、みたいなやつまでも和歌を詠んだ。この驚きが昔からあったんだろうと思う。それで、階級も性別も生死も何もかも超えてしまう気がしたんだろう。歌は心というより空気みたいなものなのではなかろうか。考えてみたら、歌は空気の震動で伝わってゆくので。。。
古典をずっと読んでいると、小林秀雄の「私小説論」というのはずいぶん無理をしている感じがしてくる。私小説は滅びないとか呪いを自分にかけるもんだから、逆に和歌は滅びなかったみたいなことも必要以上に呪いに見えてくるというのはあるんじゃないか。
考えてみると、好きな作家とか作品というのはあまり見返したり読み返したりしない傾向があって、ほんとに好きかどうかというのは怪しいと思う一方、たとえ「好き」みたいなものでも社会性への顧慮があるのであった。ドストエフスキーよりも卵焼きが優れているとは言わない。感情があるところ、社会に流れ出てしまうことを昔の人は知っていたのかも知れない。だから私小説なんて言わなかった。
先日亡くなったゴダールなんかがもたらしたものは、そのジャンプカットによる切断の美学ではなく、カットとカットに流れるもの、空気みたいなものである。ゴダールが日本人に感じさせたのは、なんかこう「いき」みたいなものではなかったであろうか。それを、エイゼンシュタインみたいにあからさまに俳句は前衛だみたいにやるのではなく、切断によってかえって流れる感情の生成をまつような世の中に対するある種の媚態がある。
一方で、その流れに抵抗し切断への欲望は、革命の欲望になり、いまは劣化して改革の欲望とかしている。思想や文学や教育の研究というのは、付け足し変形ブリコラージュみたいなあり方でゆっくり変化すべきで、おれたちの魂も生身も変化してねえのに急激に価値転倒とかしようとすると、それはあかんというものまで先行研究にないからという理由で復活する。研究とはパンドラの箱を開けないことであって、その逆をすることではない。社会への抵抗とのんびりした空気の読みあいみたいなのがこのジャンルには必要で、加速していいのは、悪人の地獄落ちだけである。だいたい、思想とか文学とか教育というのは、常に非常に不完全なものであって、それが書物の形をとろうとも「製品」というかたちにすら常になっていないことを自覚すべきである。そこに何らかの機械的な改善手段とか評価をもちこむと、その不完全さに対する認識がゆがんで、妙な変形が起こってしまう。教育に顕著な現象である。
もちろん、書物を読み切ることには、世界観の変容のマジックがあった。それを価値の生産とか価値転換とか言ってしまうからいけなかったのである。わたくしは、哲学者や宗教者たちがしばしば書物を残さないことに意味があることにようやく気付いた。
今日は、ヤクルトの村上が五五号を打ったりしたが、一番のニュースは、ゴダールがなくなったというあれである。エリザベスや安倍が文化にとって重大ではあっても、ゴダールみたいな模倣者を呼び寄せるごきぶりホイホイ的な機能はなかった。前者がバルサン的な存在であるのと対照的である。
わたくしも文系思春期人の端くれとして、ゴダールの主要な作品は、大学院時代までにはだいたい観た。一番すごいのは『映画史』のような気がするが、体調がよいときにしか観返す気になれない。ゴダールの本性は、美女に吸い寄せられてしまう中学一年生みたいなところにあって、あまりに感性がプラトニックなので忘れがちであるが、初期思春期の頭が猿状態の面白さを非常に色濃く残している。大きく物語が展開しようとすると、流行歌を歌ってやめてしまうみたいなところである。
とにかく、ゴダールの映画には、この世の欲望を超越したようなものすごい美女が映っているのですごい。これほどまでに美女をプラトニックラブ的に撮れるのは完全に異常である。アンナ・カリーナの意味不明なウィンクをみたければゴダールを見るしかない――「女は女である」。処女懐胎を描いた「こんにちは、マリア」、あれはいかん、けしからんにも程がある。(
「勝手にしやがれ」もやっぱりかっこいい映画であったが、ヒロインがおなじということもあるが、これは「悲しみよこんにちは」を喰ってしまう野蛮な映画であった。おかげで、セシルカットはゴダールのヒロインから流行っていったという歴史修正を授業中行ってしまったことを懺悔します。『映画史』をとったことからしても、彼の映画は映画史の構築であり映画批評である側面が強い。それが、彼の若さで時々美女批評になってしまうことがあるだけであった。
生を批評することは物語を拒むものである。ウルピッタの『不敗の条件』は、保田與重郎の「木曽冠者」論でセンチメンタルに閉められているわけだが、田舎もんはローマ生まれのウルピッタ、奈良生まれの保田らのためのカンフル剤ではない。木曽義仲は別に偉大な敗北をしたわけではなく、殺されたのであって、もし木曽義仲が巨大なロケットを持っていたら、ローマも奈良京都の文化も灰になっているのだ。死が小さいから多数の生が生き残るのである。
しかしまあ確かに、保田的に、死が文化を生にするというのもわからなくはないのだ。宮谷一彦も多くの人に忘れ去られていたのに彼が死んだら思い出したし、ゴダールもこれからまたみんなでみるのであろう。生きている生は文化にとって邪魔だみたいな感覚はいやらしいけど我々の中にある。しかし、物を創り出す者はそんなことを考えている訳ではない。生の批評を、死に至った批評として読んでしまう「文化享受者」たちばかりになった世界は退屈そのものであろう。
ゴダールは、その意味から言うと、我々のような享受者と義仲みたいな奴の中間にはまり込んだところがあったのではなかろうかと思う。
東雅夫氏の『山怪実話大全』のなかには、題名だけみても木曽の話が二つ入っている。岡本綺堂の「木曽の怪物」にでてくる、でかい毛抜きを持った坊さんの話はよく知られている気がする。
山又山の奥ふかく分入ると、斯ういう不思議が毎々あるので、忌々しいから何うかして其の正体を見とどけて、一番退治して遣ろうと、仲間の者とも平生申合せているけれども、今に其の怪物の姿を見現わした者がないのは残念です。モウ一つ不思議なのは、これも二三年前の事、私が木曽の山の麓路を通ると、商人らしい風俗の旦那と手代二人が、木かげに立って珍らしそうに山を見あげているから、モシモシ何を御覧なさると近寄って尋ねると、旦那らしい人が山の上を指さして、アレ御覧なさい、アノ坊さんの担いでいる毛鑷の大きい事、実に珍らしいと云う。ハテ可怪な事をいうと思いながら、指さす方を見あげたが、私の眼には何物も見えない。扨は例の怪物だナと悟ったから、この畜生めッと直ぐに鉄砲を向けると、其の人は慌てて私の手を捉え、アアモシ飛だ事を為さる、アノ坊さんに怪我でも為せては大変ですと、無理に抑留める。
なんですぐにぶっ放したがるのかわけが分からない。この調子だと、兵十がごんを撃っちまったのなんか、まだ盗人見つけたり、という感情があっただけましというものだ。
もうひとつは、西丸震哉の「木曽御岳の人魂たち」である。西丸は、祖父の弟が島崎藤村という人であるが、西丸四方や島崎敏樹といった精神業理学のパイオニアを兄に持つ。自分は、食生態学者で登山、探検が大好き。幻覚やなにやらをいろいろみてしまう人である。考えてみると、藤村の千曲川のスケッチなんか、なにか他の物も見えてんじゃないかというところがあるし、精神病理学もむかしの「変態心理学」と無関係ではないから、この一族は見えない物をみるなにかでも持っていたのかもしれん。しかし、まあ、植物がそよそよ蠢いている情況というのは、なにかがいろいろ動いて見えるものだ。西丸の名前は、彼が震災のときに生まれたからと言われている。もう視界がぶれぶれの運命を背負っているようなものだ。
このまえも、わたくしは、実りの秋を迎えた田んぼのあぜ道で、地蔵がよちよち歩いているのを目撃した。
それはともかく、西丸の文章というのは非常にノリが軽いところがあり、当該の文章でも、「六根清浄、御山は繁盛、サアンゲサアンゲ」を「LOOK ON 少女、オヤマア、半嬢、産気、産気」とか思って苦笑したとか書いているが、こういうお人は、一回檜で殴ったほうがいい。さすれば人魂なんかみなくなる。
誰かがちゃんと教育しないもんだから、彼はちゃんと御嶽の山頂で人魂に出会っている。しかも非常に失礼だ。飯盒の底を人魂がすり抜けていったのでいらいらして、素手で叩きつけたら跳ね返った、などと言っている。
翌日,ついに女の一メートル手前まで近寄ることができた。「お晩です」と声をかけても目も合わさずに知らん顔で海を見ている。「もしもし」と言いながら指で彼女の肩を思い切って突いてみたところ,指先は何の抵抗も感じず,同時に女も消え去ってしまった。そのとき初めて背筋がツーと冷えた。翌日,棍棒を手にまた一メートルのところまで近づいて,「君は幽霊かね。しゃべれるんなら返事しろや。黙ってるとぶんなぐるぞ。いいか,それ」と女に棍棒を振り下ろすと「ガツン!」と何もないコンクリート堤を叩きつけている。こちらの頭が狂ったのかと市立病院で徹底的に検査してもらったけれど,まったく正常とのこと。それからもちょくちょく女の姿を見かけたけれど,なるべくそばを通らないように別の道を通って帰っていた。
――「私の歩んだ道」(https://www.j-n.co.jp/kyouiku/link/michi/14/no14.html)
このひとは、何か不審な物に会うと、叩きたくなるようである。
㒵ひとつ。手習のごとく書よごしける。其後けはしく。宿にかへり。袴きるまでも。人の氣もつかず。其姿にて。聟入せしに。先にて興を覚し。指添をさげて。かけ出を。しうと留めて申は。此上は。おのおのかんにんあそばしても。我等きかず。もはや百年目と。死出立になりて行を。両町きゝつけ。さまざまに曖へども。きかざれば。やうやう四人に。つくり髭をさせ。かしらにひきさき紙をつけ。上下をちやくし。日中に詫事。よいとしをして。孫子のあるもの共。めんぼくなけれど。しなれぬ命なれば。是非となき事也。中にもすぐれて。おかしきは。御坊の上髭ぞかし。
平安時代や鎌倉時代の激烈な物語に心通わせると、ついおれたちはまだあの頃の生まれ変わりかと思ってしまう。「鎌倉殿の13人」なんかをみても同じことである。だいたい映像の時代劇はうまくつくればつくるほど、現代の我々の感性を相対化出来ない。相対化するのは過去の文学の読書だけのような気がする。第一次大戦中に芥川龍之介が、第二次大戦中に太宰が古典に帰って、それも、源氏や平家ではなく、キリシタン物や西鶴に執心したのも、分かる気がする。源氏や平家は、死なないから死んでくれ、みたいな磁場に人を誘い込む。「しなれぬ命なれば。是非となき事也」(人間簡単に死なねえからしょうがねえ)と言い放つ西鶴は、我々の陥る磁場の別の場所をみていたと思う。これが、近代になると、つい生命主義みたいな宗教になってしまうのだが、――ここでは浄土真宗の信徒と僧が、新婚さんの顔に落書きをして謝るというだけのことに「人間簡単に死なねえから」と大仰に言ってみせる。このナンセンスさに生が宿る。
もっとも、西鶴の生きていた時代は、ほんとはもっと全体的に陰気だったに違いなく、若者であることも僧であることも、町人であることも、大した意味を持っていないような退屈が根底にあった気がする。そんなときに、若者のエネルギーは、テロリズムに集約されていくほかはなかったのかも知れない。同様に、ここ何十年かは、我々の生は「死」を目的にするような世界に足を突っ込んでいる。むろん、そんな風に死で生をおどしつけても生は蘇生しない。
この前、「革新的自殺研究推進プログラム」の応募がきたのだが、づくづく、まずこのネーミングセンスをどうにかしてからこういうことを推進していただきたいと思う。――とはいえ、あえて自殺対策と銘打たない、このセンスは我々の死への欲望をよく表している気もするのだ。
これに比べれば、黒岩涙香の『小野小町論』が「貞女は一夫にだにも見えず」ということは女の覚悟だ、みたいなところから始まっており、この考えじゃないといい男には出会えないとか言っている感じの方がまだ「生」を目指していた気がする。――まあ頑張ってくれとしかいいようがないが、この文章は、大正元年にかかれた。それは大正時代の幕開けであった。しかしそれは、革命という「死」の目的に、引き寄せられていった流れをつくった気がする。
生の世界は、目的を生の目的にしない世界である。大河ドラマを見ていると、案外鎌倉時代は生の時代じゃなかったかなと思う。そこには、一〇代初めぐらいで武芸の天才とか政治の天才とかがいただろう。いまも実はいるのであるが、見えなくなっている。学校からこの二者は排除されているからである。もっとも、彼らは自意識がまだ一〇代なので、まわりの大人たちはこういう天才たちをなだめる方法を人間的に知ってたに違いない。これは、死に加速しがちな天才たちを生に引きとどめる。
しかし、いまは天才たちを学校に閉じ込めている。大人が若者の扱いを学習しなくなっているのである。若者も、猫なで声みたいな親とか教師ばかりと付き合ってるもんだから、怪物的な大人との付き合い方を学んでない。これでは、個々の人間たちは勝手に死に向かうであろう。
俄に佛檀の。ゐはいをくだき。佛事をやめて。精進を魚類にひき替て。祝言にいさめをなせば。たちまち其日より。物をいひ出し。此程の恥をかなしみ。親達のなげきを思ひやり。萬の心ざし。常にただ事なし。我無事すゑずゑは。出家になしてと。一筋におもひ定め。其後は親にも。一門にもあはず。かくて三年もすぎて。むかしに替らず。美女となりて。つねづね願ひ通り。十七の十月より。身を墨染の衣になし。嵐山の近なる里に。ひとつ庵をむすび。後の世をねがひける。またためしもなき。よみがへりぞかし。
火葬されたはずの娘が生きており、うばの夫によって背負われてよみがえっていったが、しゃべるようにはならなかった。で、両親が仏事をやめて精進を魚に変えたら、一気に元通りになっていった。しかし、いままでの恥を悲しんで出家の決意を固め、美女に戻ってからもちゃんと出家してしまった。
田中希生氏が『存在の歴史学』のなかで、儀式によって死ぬことが出来る天皇に対し、庶民は死ぬことの出来ない存在であったことを指摘していた。確かに、我々の文化は、あんまり死ぬことのできないお話が多いことは確かである。「源氏物語」も、主人公は死ぬことが出来ない。雲隠れがないことは偶然であるかもしれないが、あまりによくできた偶然である。光源氏は、天皇の子でありながら、母の庶民の半身のために天皇になれなかった。すなわち、崩御することができない。そのかわりに、似てるのか似てないのかわからない子孫たちの話が後に続いている。
万世一系の天皇?を支える意志は、こうして庶民の側が裏側から支えることになっているかもしれない。死なない現実の合理化である。
イギリスと我が国は、習慣的なものが法みたいな顔をしている点で、顕教的なのか密教的なのかの違いはあれど、ちょっと似ている。
王は死んだときにその本質を発揮する。天皇もそうであったときがあったが、生前退位がそれを不能にし、我々の一部が安倍氏の死を王の死として代替しようとしたが、いまはグローバリズムなんで、いろいろな死が次々ともたらされ、どうでもよくなりつつあるのか、そうではないのか。いずれにせよ、安倍の死は、普通の死ではなく、我々が戦後と冷戦構造の中でうまく処理できずに見ぬふりをしてきてしまった、宗教問題を我々の生に突きつけることになった。安倍氏は、そのある意味、正直な生によって、問題を顕在化した。しかし、これは明らかに、天皇のあり方ではなく、テロリズムのあり方だ。現実の生を中断させることで、問題のあり方を中断から顕在化させる、矛盾した現実という意味の爆発である。
対して、死去したエリザベス女王が今になって人気あるのは、もとAuxiliary Territorial Serviceで剣でケーキを切ったりする、軍の象徴でもあったこともてつだっている。うちの三種の神器はあくまでもどこいったのかしらない観念と化しているが、またイギリスを真似て、いつか天皇にも剣を持たせることもあるかも知れない。庶民を代表するかにみえたダイアナとの対立というのは、嫁姑問題ではなく、本質的問題だったのである。ダイアナの死は、女王のあり方を変えたと言われていて、まさに「統合の象徴」たるべく努力を可視的に行うようになったということらしい。しかし、それでも剣の象徴であることもその統合の一部なのだ。
安倍氏は矛盾、エリザベスは統合を意味する。実際どうであったかは関係なく、そういう意味の磁場を形成してしまったようだ。
表象的経験はいかに統一せられてあっても、必ず主観的所作に属し、純粋の経験とはいわれぬようにも見える。しかし表象的経験であっても、その統一が必然で自ら結合する時には我々はこれを純粋の経験と見なければならぬ、たとえば夢においてのように外より統一を破る者がない時には、全く知覚的経験と混同せられるのである。
――「善の研究」
ラリー遠田の『お笑い世代論』を少し読んだが、第六世代にあたる千鳥が正統派みたいなポジションで天下とるのではないかという感じは、わたしも持っていた。第七世代というのはまだ評価のあいまいなところもあり、わたしもさっぱり誰が誰なのかもわからない。わたしは、ダウンタウンの台頭期にテレビをみていないので、松本人志というのも、かれのお笑い論の書籍から入った気がする。ちょっとお笑いをみるようになったのは、有吉とかブラックマヨネーズとかマツコデラックスなどが成熟していったころで、かんがえてみると、お笑いの人たちは上がつっかえてることもあって、天下を取るのが、われわれが就職する時期と同じだったからである。
したがって、彼らの苦悩は、われわれが学生と話が通じなくなりそうな年齢に表舞台にあがっているのと同じものがあるに違いない。そうであるなら、思い切って思いつくままに喋ってやろうかという感じである。そして、言うことが、教育的にもなりがちである。
其中に髪しろくまきあがり。さながら仙人のごとくなるが。薄縁の糸にて。細工に虫篭をこしらへ。此うちに十三年になる虱。九年の蚤なる是をあいして。食物には。我ふともゝを喰しける程に。すぐれて大きになり。やさしくもなつきて。其者の声に。虱は獅子踊をする。蚤は篭ぬけする。かなしき中にも。おかしさまさりぬ。
「蚤の籠脱け」は、教科書にも入っていたりすることもあった。牢屋というのは籠に似ているし、確かに、籠の中にいる動物というものは、人間に限らず、なんだか大きくなったり踊ったりするものだ。それは体だけではなく頭も気分も大きくなる。このあと、昔のことを喋っていた犯罪人が、おなじ牢に入っていた人間の無実を図らずも証明する。結果的に喋った男も無実の男も牢屋の外に出て行った。
我々の人生にこんな都合のよいことはあまり起こらないが、我々の経験と我々の置かれた環境との関係はいつも不思議なもので、われわれの意識外に働いている。
大きく流れとか形をとらえるのが長けている人間が、――つまり籠を認識できる人間がたいがい有利だというのはあるけど、それは誰にでも出来るわけではないし、自分に対してはそれは不能だと思っている人間の方が信頼は出来るかもしれない。武士たちだって、自分の盗人としてのプライドや武士のプライドがあっただけである。それでも、それが自らを解放することだってある。
私が目標としているのは、小林秀雄や花★清輝ではなく、モンテーニュである。彼をときどき必要とするのが人類だ。彼には、自分の周りの籠に対する意識が飛び飛びにある。小林や花田にはあり過ぎるのが思春期にはよかったが、いまはそうでもない。
然も水論は。正保年中。六月はじめつかたの事なるに。両村の大勢。千貫樋にむらがり。庄屋とし寄。一命を捨て。あらそひして。今ぞあぶなき折ふし。日の照最中に。ひとつの太鼓なり。黒雲まいさがつて。赤ふどしをかきくる。火神鳴の来て。里人に申は。先しづまつて聞たまへ。ひさしく雨をふらさずして。かく里々の。難義は。我々中間の業也。此程は。水神鳴ども。若げにて。夜ばい星にたはぶれ。あたら水をへらして。おもひながらの日照也。おのおの手作の。午房をおくられたらば。追付雨を請合と申。それこそやすき事なれと。あまた遣しけるに。竜駒に壱駄つけて。天上して。其明の日より。はやしるしを見せて。ばらりばらりと。痳病けなるに。雨をふらしけるとぞ。
「神鳴の病中」は、諸国ばなしの中でも傑作のひとつだと思う。遺産相続の争いの中に刀に執心する奴がいて、それが水争いのときに爺さんか誰かが使ったなまくらで、人を切れなかったために裁かれずに助かったのだ、――という話が続き、なんの教訓だろう、と読者が油断していると、水争いの元凶である神鳴り様のお出ましである。仲間が夜這いをしすぎて腎虚になったので雨が降らないんだ、とくる。で、ごぼうをくれよというので民がごぼうをやると、淋病の小便のように少し降ったらしい。
太宰のような自意識が1ミリもない素晴らしい加速的な話である。
「加速して参ります」とかいう政治が悪事だけを加速させるのと、太宰の小説はにている。
もしここに平和という言葉があり、戦争という言葉がある。あるいはどんな言葉でもいい、一つの観念も政治的なスローガンであるうちはいいが、それが政府が強制した言葉になった場合、その政府が強制した言葉を我々が使わなければならない場合は、その言葉の意味内容というものは自由に変えられる。
――三島由紀夫「学生との対話」(早稲田)
上の部分は、早稲田での講演のポイントの一つだが、こういうのは当時の学生がいわなきゃいけなかった。三島こそが意味を変えてると。しかしそうじゃなかったので、いまや「対話」やら「SDGs」やらなにやらで、意味がスポイルされ変えられた言葉を強制されるはめになっている。要するに、言葉とは、比喩でもなんでも自意識がくっつき始めると、意味が逆にも何にでもなってしまう。それは文学の成立させる性質でもあるが、文学を殺す性質でもある。まずは、欲望だけに忠実な言葉がはかれなければならない。
さっき新聞が届いて、一面に「国葬反対」「保守性と宗教、底なしの夏」とででんとあって、ついお腹がへんな音立ててしまったが、『図書新聞』だった。こういうときのこういう新聞の言葉は生き生きしている。意味以外の意味がないからだ。我々はソ連の「プラウダ」(真実)という新聞を笑うけれども、「週刊実話」とか「週刊大衆」もたいがいプロレタリアート独裁的真実的な何かを感じるのであって、下ネタと同等の革命や擾乱の欲望を残しているからだ。週刊誌が唯一ジャーナリスティックになっているのは当然である。ほかの言葉たちは、もう何かの隠れ蓑にしかなっていない。
いまの自民党の堕落は、かかる言葉の堕落とも相即的である。かれらが明確な反共みたいな「思想」をもっていたらまだましなのである。いまは実際それもない。そもそも、自民党は成立事情からしても保守ではなく、「反共」政党だったからである。しかし、対立する共産主義をやつらは狂信的だ一種の宗教だとか言ってるうちに、みずからも、マルクス主義が敵視するところの「宗教」=「反共」みたいな意味の混淆を体現することになってしまったのだ。この混淆は錯乱をいみせず、むしろその自覚を疎外するのである。宗教はアヘンと変わらない。別に自分で吸ってるわけではないからアヘンだと気付かないアヘンである。
旧家の長男というものには、昔も今も一貫した或る特徴があるようだ。趣味性、すなわち、之である。善く言えば、風流。悪く言えば、道楽。しかし、道楽とは言っても、女狂いや酒びたりの所謂、放蕩とは大いに趣きを異にしている。下品にがぶがぶ大酒を飲んで素姓の悪い女にひっかかり、親兄弟の顔に泥を塗るというような荒んだ放蕩者は、次男、三男に多く見掛けられるようである。長男にはそんな野蛮性が無い。先祖伝来の所謂恆産があるものだから、おのずから恆心も生じて、なかなか礼儀正しいものである。つまり、長男の道楽は、次男三男の酒乱の如くムキなものではなく、ほんの片手間の遊びである。そうして、その遊びに依って、旧家の長男にふさわしいゆかしさを人に認めてもらい、みずからもその生活の品位にうっとりする事が出来たら、それでもうすべて満足なのである。
「兄さんには冒険心が無いから、駄目ね。」とことし十六のお転婆の妹が言う。「ケチだわ。」
「いや、そうじゃない。」と十八の乱暴者の弟が反対して、「男振りがよすぎるんだよ。」
この弟は、色が黒くて、ぶおとこである。
――「浦島さん」
「ウルトラQ」の「育てよカメ」の内容は忘れてしまったが、たしか乙姫もかわいらしかった気がする。太宰の浦島は、生ざとりの不気味さを表現したもので、やはり子供の魂は失ったものであった。太宰はなんでこんなに無垢にこびを売るのかわからない。
北野のかた脇に。合羽のこはぜをして。其日をおくり。一生夢のごとく。草庵に独住。おとこあり。都なれば。萬の慰み事もあるに。此男はいまだ。西ひがしをも。しらぬ程の娘の子を集め。すける持あそび物を。こしらへ。是にうちまじりて。何のつみもなく。明暮たのしむに。後には新さいの川原と名付て。五町三町の子共。爰にあつまり。父母をもたづねず。あそべば親どもよろこび。佛のやうにぞ申ける。
「男地蔵」における、この仏のようで鬼のような、そして童女誘拐犯みたいな男が妙に無垢であるのは注目されてきたところであろう。宮澤照恵氏が、根本的に「天神信仰」に基づくことで男の造形が許されることになっているような事態を論じていた。われわれの文化における信仰とは何だろうと改めて思う次第だ。信仰によって、我々の変身が許される。いや、我々の日常の変質や転向なども、信仰によってうまいこと許されてきたのかもしれなかった。
天神は雷神というより子どもの守護神というかんじが今でもあるが、――確かに、子どもなら迷走や変節、変身は許されそうな気がする訳である。われわれの先祖たちは、子どもや子どもっぽい人物たちとの共存を永い間はかってきた。この歴史を無視するわけにはいかないような気がする。
われわれは子どもに対する理解を諦める時に、ついまわりの動物たちが、子どものように大人であることに気づき反省することを繰り返してきた気がする。西鶴の作品には、そういう動物たちと人間との関係と、人間社会の中の権力との関係が生々しい気もする。この話でも最後に奉行が出てきて、この男の素直な態度を目の当たりにすることになっている。「流石都の大ようなる事。おもひしられける。」――さすが京はのんびりしているな、というのが話の出した結論なのだが、いまいちわたくしはほんとにのんびりしているようには思えないのであった。のんびりしているように言えという、奉行の命令でも下っていた気がする。
能登殿、其処退き候へ矢面の雑人原、とて差し詰め引き詰め散々に射給へば矢庭に鎧武者十余騎ばかり射落さる、中にも真先に進んだる奥州佐藤三郎兵衛嗣信は弓手の肩を馬手の脇へつつと射抜かれて暫しも堪らず馬より倒にどうと落つ。能登殿の童に菊王丸といふ大力の剛の者萌黄威の腹巻に三枚甲の緒を締め打物の鞘を外いて嗣信が首を取らんと飛んで懸かるを、忠信傍にありけるが兄が首を取らせじと十三束三伏よつ引いてひやうと放つ。菊王丸が草摺の外れ彼方へつつと射ぬかれて犬居に倒れぬ。能登守これを見給ひて左の手には弓を持ち右の手にて菊王丸を掴んで舟へからりと投げ入らる。敵に首は取られねども痛手なればや死ににけり。
源氏軍の佐藤嗣信を、平教経(能登殿)が射貫いた。この人は清盛の甥である。で、教経の雑用係であった菊王丸という怪力少年(18?)が嗣信の首を取ろうと飛びかかると、嗣信の弟・忠信がそうさせじとこれを射貫いた。
この佐藤嗣信の墓は、安徳天皇社のちょっと北の方にあるのだが行きそびれた。ちょうど安徳天皇社を真ん中に合戦のあった海にむかって鳥が羽を広げるように左手に佐藤の墓、右手に菊王丸の墓がある。平家物語によると、佐藤嗣信は、義経を狙った平教経の矢にあたって死んだ。彼は奥州から義経についてきていた人物で、討たれても簡単にはくたばらず、ベルディのオペラなら軽く10分程度は、義経の胸の中で歌っていたでもあろう。
就中に、 『源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける者、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉ッてうたれにけり』と、末代の物語に申されむ事こそ、弓矢とる身には今生の面目、冥途の思出にて候へ」
これに比べると「犬居」の姿勢で討たれてしまった菊王丸の哀れさよ。能登殿は咄嗟に右手で菊王丸を摑んで舟のなかに放り投げる。こういう、死ぬまでの二人のコントラストが劇的にできている「平家物語」は、もちろん勝者と敗者の二者に死者が跨がっているからそうなっているのである。事実はどうであろうと、地元の人々は、佐藤殿も菊王丸も墓をつくらざるを得まい。その間に安徳天皇をまつりながら。天皇は、死者たちを跨ぐ要の死者である。
もと「壇ノ浦神社」。寿永2年、ここに京から遁れた安徳天皇の御所が置かれたという。『香川県神社誌』には、「讃州府志」を引用し「土人こゝを内裏と呼ぶ」とあり。
周辺にあった、平氏の死者の墓を集めたものといわれる。
本殿。
訪ねて分かったのだが、ここはなかなかの眺めのよいところで、――屋島の古戦場というのは、屋島の山腹からみると屋島と牟礼の間の湾自体、恰も海の京都という感じがある。安徳天皇が入水した壇ノ浦はむろん別の場所であるが、「海の中にも都はありましょう」という女人の言葉は、なんとなく古戦場を上から見ているとそんな気もしてくるから不思議である。
「君はいまだ知ろしめされさぶらはずや。前世の十善戒行の御力によつて、今万乗のあるじと生まれさせたまへども、悪縁に引かれて、御運すでに尽きさせたまひぬ。まづ東に向かはせたまひて、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西方浄土の来迎にあづからむと思しめし、西に向かはせたまひて御念仏候ふべし。この国は粟散辺地とて心憂き境にてさぶらへば、極楽浄土とて、めでたき所へ具しまゐらせさぶらふぞ。」
と、泣く泣く申させたまひければ、山鳩色の御衣にびんづら結はせたまひて御涙におぼれ、小さくうつくしき御手を合はせ、まづ東を伏し拝み、伊勢大神宮に御暇申させたまひ、その後西に向かはせたまひて、御念仏ありしかば、二位殿やがて抱きたてまつり、
「波の下にも都の候ふぞ。」
鳥居の右端には壇ノ浦養豚組合による「支那事変紀念」の碑があり、前面の鳥居も昭和13年のものであった。戦争は昔の戦争にも碑によって繋がっている。しかしほんとにつなげる必要はなかった。そして、戦われたのはもっと広い海でのことであった。
女の首両方より。袖にすがりてなげく。それこそやすき事なれども。何をかしるべに。申あぐべきたよりもなしと申せば。それにこそ證據あれと。年比に語る。是より南にあたつて。廣野あり。つねは木も草もなき所なり。我等を堀埋し後に。二またの玉柳のはへしなり。是しるしに頼むとの言葉も。つゆ絶て。夢は覚ける。不思義とおもひ。彼野にゆけば。其里へ集り。今までとは。見なれぬ柳とおどろく。さてはと此事。國王へ申あぐれば。あまたの人を遣はし。彼地を堀せ。見たまふに。爰にたがはず。女弐人むかし姿かはらず。くびおとしてありける。あらましそうもん仕れば。谷鉄が住家に。大勢みだれ入てからめ取。おのれが身より出ぬるさびなればと。鉄の串さしにして。ちまたにさらしたまへり。
飛驒の山奥にトンネルがあって異界に通じてて、そのなかで寝ていたら首と胴体が離れた女二人にたのまれて犯人を串刺しにした。で、ここにいると命なくなるので、土産を持たされて帰った。というおはなし(「夢路の風車」)。最後に、その隠れ里を探せと叫ぶ集団が出現するところがギョッとするが、この類いの話はおおいような気もする。これは一見マトリョーシュカなのだが、それよりも主人公の体験は「物語として実在する」という形で、マトショーシュカ的、すなわちどこまでが夢か現か的な、虚構の範囲を考えるのをやめた方がよい(やめることはできないのだが)とするのが水上雄亮氏の説であった。確かに、それはそうである。
それはそうとして、首だけの人間が行動するという話がわが人間は大好きだ。思うに、首なし屍体を見慣れていた我々の祖先は、それが物理的切断というより、世の中には、首とそのほかという「二者」が存在することを重要視していたに違いない。つまり、異界とこの世、あの世と此の世、などという観念と、首なし屍体と首というものの関係は、それほどちがうもんじゃなかったという感じがする。いまもそれは、我々がモノを考えるときには、基本、二者の関係を考えることから出発する習慣として残っているのではないだろうか。
例えば、横道誠氏の大活躍を拝見して思うんだが、宗教2世としての問題は最初は打ち出す問題の表面じゃなかったと思う。しかし、問題というのはたいがいこういう形で複合体なのである。その意味で、ちゃんと問題を問題として捉えるために活動は多面的にならざるを得ないというのが氏の活動の示したことだ。もっとも、この姿勢はきわめて常識的なものともいえるのである。だいたい学問が官吏的になると、問題に対して原因も解決も1対1になってなにかおかしいかんじになるわけである。問題からの逃避になってしまっている。――しかし、その1対1の対応も、二者なのだ。問題を一つとみると、解決をひとつ追加することで我々は安定する。
芥川龍之介の「河童」は、こういう「二者」の安定に欺瞞を感じていた。二者の中に様々な二者が含まれていて、その葛藤を大きな二者(河童界と現実)で解消してはならないと思っていたに違いない。
問題はかならず二つ抱き合わせで解決があるんだとわたくしの小学校の担任が言っていた。当時は省エネかと思ってたが、そうじゃなくて、問題は連関なんだといってたんだと思う。彼は自分の小説でもそういうことを描いてた。彼は小学校六年生に対して、物事をなしとげるために結果から逆算してやるべきことをきめてゆく、だけではだめなんだとも強調してた。プロセス自体に考える種が様々あってそこに良いか悪いかみたいなものが発生するんだと。当時はよくわからんかったけど、いまはわかる。