★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

一房の葡萄

2022-10-19 20:03:38 | 文学


「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
「そんなら又あげましょうね。」
 そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。
 僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
 それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。


――有島武郎「一房の葡萄」

戦艦趣味

2022-10-18 23:10:01 | 文学


明くる朝、飯も食はずに上甲板へ出て見たら、海の色がまるで變つてゐるのに驚いた。昨日までは濃い藍色をしてゐたのが、今朝はどこを見ても美しい緑青色になつてゐる。そこへ一面に淡い靄が下りて、其靄の中から、圓い山の形が茶碗を伏せたやうに浮き上つてゐる。僕は丁度來合せた機關長に聞いて、艦が既に豐後水道を瀬戸内海へはいつた事を知つた。して見ると遲くも午後の二時か三時には山口縣下の由宇の碇泊地へ入るのに相違ない。
 僕は妙に氣が輕くなつた。僅か何日かの海上生活が、僕に退屈だつたと云ふのではない。が、陸に近いと云ふ事は何となく愉快である。僕は砲塔の近所で、機關長と法華經の話をした。
 やがて、何氣なく眼を上げると、眼の前にある十四吋砲の砲身に、黄いろい褄黒蝶が一つとまつてゐる。僕は文字通りはつと思つた。驚いたやうな、嬉しいやうな妙な心もちではつと思つた。が、それが人に通じる筈はない。機關長は相變らずしきりにむづかしい經義の話をした。僕は――唯だ、蝶を見てゐたと云つたのでは、云ひ足りない。陸を、畠を、人間を、町を、さうして又それらの上にある初夏を蝶と共に懷しく、思ひやつてゐたのである。


――芥川龍之介「戦艦金剛航海記」

浮世念仏のつれ声、艶しく殊勝に思ひ入り

2022-10-17 23:06:03 | 文学


をりふしの兼題に、「還咲きをかしあしたの花の陰に、哀れに可惜き物。初霜の朝に四人泣くは、悲しき物。 世のなかに、あればいやな物、なければほしき物。はじめ懼ろしく中程はこはく、後はすかぬもの。時雨の夜は 、跡あけくれ 先のしれぬ物」。 この五つの題を取りて、明暮、案じ入り、咄程の事ながら、心をそれになして、安達が原の鬼ども、 胸を燃やし、 人の物をやらぬ、分別も出、今もしれずと、無常を観じ、けふの首尾、太夫はいかに暮らしけるぞと思ひ、 様々に移気、魂我ながら定めかね、現に枕引きよせ、寝入りもやらぬ耳ぢかく、十月十五日の暁がたに、 浮世念仏のつれ声、艶しく殊勝に思ひ入り、明くるを待ち兼ね、 出家の書置きして、難波の寺に入るを、各々、ことばを世にある程尽くし、異見を聞きわけず、国遠して、面もなかりき。

話をつくって得点を争うゲームにのめり込み、ついに(というより必然的に)無常を感じて出家してしまうオトコを不孝と断じるこの話である。美男の設定なのでなんかいやであるが、それはともかく、やたら出家すりゃいいというものでもなく、駄目だなこういうやつは、というのがこの話である。ともかくこんなタイプは今もよくいるし、わたくしもたぶんこの類いである。しかし、江戸にはまだ出家という手段があった。いまはそういう行き場がない。

古本屋で適当に買ってきた、石田月美氏『ウツ婚!!』をちょっと読んだ。飛び跳ねるような文章のセンスで、引用とパロディをせずにはいられないところはオタクというより、浄瑠璃的であろうか(←適当)。へたな学術の新書より注が多いのは面白さでもあるが、氏の方法が見かけよりも合理的で研究的である証拠であった。石田氏が提案していることの多くは、ウツじゃない人?でも使える。例えば、湯船はフラッシュバックがあるかも知れないので危険というのは、これは当たってると思う。リラックスと弛緩する危険はとなりあわせなのだ。「新世紀エヴァンゲリオン」の美形のおねえさんがお風呂は命の洗濯よ、といいながら、主人公たちの少年少女たちが浸るロボット内のお風呂が、親との関係から生じるトラウマが回帰する危険な空間であったのと同じである。あと、漫画や映画の題名って少し変えるだけで、それだけで生きる指針になるんだなと思い、感心したわ。「プロポーズに体を張れ」とか。サブカルチャーが娯楽というよりも世界の規律として見えてくるのは、「本朝二十不孝」にも見られるような気がする。

石田氏の場合は、病んだ心身のただ中にあって、なんとか社会の中で生きて「しまおう」とする、綱渡りである。これは、やはり出家の道がないというのがきつい。実際は、石田氏はその文才で世の中にうってでられたという特殊事情がある。結局、我々は自信を回復しないと何も始まらないのだ。自分を認めることだけで何かが解決するわけじゃない。

あと、エネルギーも問題だ。石田氏の文体はエネルギーの塊(たぶんこれはブッキッシュの力である)である。これがあるうちはいいが、歳をとってくるとどうなるか分からない。当たり前だが、ウツや発達障害の問題は、若さによってなんとかなったりならなかったりという繊細な面があるようだ。老いの問題はこの業界でもまた話題になっていくのであろうと思われた。

道徳と再生装置

2022-10-16 23:08:38 | 文学


その後は、独り家に残れど、夫になるべき人もなく、五十余歳まで、ある程を皆になし、親の代につかはれし下男を、 妻として、所を立ちさり、片里に引き込み、一日暮しに、男は犬を釣りをれば、おのれは髪の油を売れど、聞き伝へて、これをかはず。けふをおくりかねて、朝の露も、咽を通りかね、目前の限りとなりぬ。花に見し形は、昔に替はり、野沢の岩根に寄り添ひ、身比羅のごとくなりて、死にける。

「本朝二十不孝」は当時の道徳への皮肉であると解する人もあるが、道徳の暴力性は、明らかに理不尽だということが明らかなときにこそ発動するので、いかに西鶴が面従腹背のつもりであろうとも、道徳の書として機能しただろうとわたくしは思う。だから、最近の教科書も同じである。教材が道徳に回収出来ないものであったとしても、それを抑圧する問や目当てが存在する限り、それは道徳的な教材である。

幼稚園の頃から見たドラマを頭の中でもう一回再生みたいなことが得意な方だった気がするけど、まだあるていどいける気がする。大河ドラマでもだいたい再生出来ると思う。若い頃は文章もいけたが、さいきんちょっと覚えが悪くなってる。気のせいかも知れないが、これのおかげで抽象的な設計みたいなのが苦手な気がするのである。――が、それはともかく、この再生能力がつよいことによって、作品を道徳に回収しようとする企図には対抗出来るのかもしれない。内面においては。と、この「内面」とやらを無限な時間として重視するのが近代の純文学であった。内面は一種のストップボタンが壊れた再生装置である。

ただ、これも体が元気なときにこそ再生が可能なので、少し疲れてきてその疲れが過去を照らすようになり、厭世観がつよくなってくるとそれも駄目である。厭世観が昂じるとまずつまらなくなるのはエンターテイメントである。これはほんと、たいがい過去の再生で成り立っているところがあるからだ。まだこれを楽しめるうちはまだ大丈夫である。

人生の執行者

2022-10-16 06:29:17 | 文学


しらぬ事とて、是非もなし、文太左衛門は、手近なる撞木町に忍び入りて、正月買ひと浮かれ出し、あまた女郎を聚め七草の日まで、 一歩残らず撒き散らして、不首尾あらはれ渡り、宇治の里に、立退きしが、かの、二人の親の最後所になりて、足すくみ、様々身をもだえしに、眼暗みて、倒れしに、二親の亡骸を食ひし狼、又出て、終夜、嬲り食ひ、大かたならぬ、うきめを見せて、その骨の節々までを、余多の狼くはへて、狼谷の海道ばたに、又、人形を並べ置きて文太左衛門が恥を曝させける。


娘を売った金で年越ししそのうえその息子に金を盗まれて自害した両親は犬に食われた。で、その息子(文太左衛門)も両親が自害した場所でなぜか気分が悪くなり、でてきた犬に嬲られる。犬は、その骨を咥えて人々の通る街道に人型にならべてその恥をさらした。

悪夢というのは悪夢を呼ぶものであるが、怖ろしいのはその悪夢の執行者がだいたい同じであることだ。ここには、世の中の広さや多様性みたいなものはなく、執行者の犬がいるだけだ。

この話はあまり解釈の余地はないように思うが、最後に「天はこれを罰したまふ」とあることでなんとかその執行者の登場のおそろしさを道徳に回収している。これでないと人生やっていけないというのは確かにある。実際、「大不孝者」と呼ばれているとはいえ、この乱暴者の息子の存在は、親にとって、そこらの犬が家の中で暴れるよりもタチが悪い悪夢だったからである。悪夢は終わらせる必要があり、この両親の場合は自害だったが、それが自由意志とかの問題ではないことを死骸を犬が食いちらかすことによって示す。

いつの時代であっても文学の面白さは意味のあやふやさみたいなところにはない。読者は人生のオソロしさを思うから、たしかなものの実在よりは茫洋とした気持ちにはなる。だからそれが曖昧模糊としてみえる気持ちはワからんではない。まずは我々の文化の奥までもぐってゆくと、それが曖昧さではなく、苛烈さの証拠にも見えてくる。近代文学だと、その苛烈さを隠してある場合もあるのだが、それは隠した行為自体がまずは問題になるべきだ。かくれていることで、曖昧になっているんだとしたら、それは人生ではなく表現者の態度が苛烈さを扱いかねていたということではなかろうか。

ものの世界と分身

2022-10-14 23:23:12 | 文学


堀口大学は越後長岡の藩士の家に、父九万一の東京帝国大学に遊学中、その本郷の寓に生れたといふ。僕と同じく明治二十五年生であるが、彼は一月僕は四月で僕より百日の長である。ともに十九歳の一日、新詩社の歌会で落ち合つたのが初対面で与謝野晶子さんに紹介されて交を結んだ。爾来四十七年間、常に好謔悪謔を戦はして談笑を喜ぶがまだ一度も争ふ事のない莫逆の友で分身の感がある。

――佐藤春夫「分身の感あり」


きのうある経済ニュース番組で、マイナンバーの利点はなんでしゅかときかれてある学者さんが、データとって政策にイカせるから、とだけ言ってた。そりゃカードを持ってる人民の利益じゃねえわ、とわたくしのプロレタリアートの精神が言うてしまったが、――実際、頭と精神がおかしい場合、データがどういう扱われ方をするのか学者はよくわかっているはずである。が、それはともかく、我々は万葉集以来、なんか集めてみましたというのが好きで、これはオタク的な何かとは違ったなにかがあると思う。和歌集にはいろいろな構成?の妙があるんで、一概には言えないが、林や森の中に入ってゆくようなつきることのないものへの安心感みたいなものがある。多様性と言うより、もののなかにものがあるみたいなものの連続のことである。これは、国語の授業で過剰に人物の心情を推測したり、ものづくりで細かい作業が得意と思ったりすることにつながっている。一方で、行ったことのみに問題がある責任みたいなものに対しては、もの自体の破壊に似た感情を起こしてしまい、殺しあいや論破合戦となる。これも強烈に突き抜けた人となると、バラして奥までも分析するみたいな行為ともいえるんで、やはり裏腹なのかなと思う。むろん、ほとんどの人はいずれでもない。

佐藤春夫が堀口大学に抱いた「分身の感」とはいったいなんであろう。思い出してみると、古典文学の世界だって分身みたいなものはたくさんいたような気もする。源氏物語や平家物語なんか、名前が違っていなければほぼ同一人物みたいな連中がたくさん出てくるからである。しかし近代社会で分身と呼ばれたものが異様に映るのは、本当はなにか責任問題みたいなものが発生していて、我々の主体を無理やり二つに解体しようとしているときのような気がする。芥川龍之介はたぶんそうだった。

つまり、むしろ、「分身」的な思考は、奧に奧にものを求めてゆく世界とは違った、二項対立がさしあたりあるような次元で起こる。むかしからかもしれないが、いまや確かに、森にいない我々というのは確かに存在する。例えば、二項対立は「Aだけではだめです。Bがなきゃ」という論法においても存在するが、Aが実現してたことをみたことがない。で、たいがいAがBのための要件なので、Bがあるふりをして嘘をつき続けなければいけないパターンに陥る。ほとんど我々の堕落はこれで説明つく。Aには学力とか民主主義とか経済的安定が入り、Bにはコミュ力とか近代の超克とか日本の価値が入るわけである。しかしこれも考えてみると、こんなのが我々の文化で、松岡正剛氏のいわゆる「擬」の世界の二項対立的実態かもしれない。たしかにそれは二項対立的美の何かなのかもしれないが、擬同士の争いの世界でもあるのであった。擬だから血みどろなのになんちゃって的なところが常にある。そしてそれはいかんというので「擬」に真剣な幇間がでてきて対立する擬を殲滅して自らも破滅する。その意味で言うと、分身に拘って居る人々は、まだ破滅を信じがたく、幻影を見ている人々なのかもしれない。分身は幽霊的であった。

ロボットの霊魂の行方

2022-10-13 23:30:45 | 文学


 夫人は、ロボットの手から、腕を抜こうとした。男は、肩の骨の上から抱えられて、右手で、ベッドの枠を握りながら、全身の力で、抜出そうともがいていた。夫人は、脚で、空を蹴ったり、ロボットを蹴ったり、顔を歪めて、恐怖の眼を剥出して、
「誰か、誰か――来て頂戴。」
 と、絶叫した。ロボットは、徐々に、正確に、二人を、締めつけて行った。……………………………………………………………………、二人の骨が痛んだ。
「ああッ――痛い。」
 夫人が、叫んだ。その刹那、ロボットが、
「ベッドを汚したからだ。」
 と、いった。それは、俊太郎に、よく似た声のように、二人には聞えた。そして、それと同時に、二人は、頭の底へ突刺すような、全身の骨の中までしみ透るような、激痛を感じた。二人は、悲鳴を上げた。
「ロボットの霊魂だ。」


――直木三十五「ロボットとベッドの重量」


マイナポイントに釣られて光速でマイナンバーカード作った人たち、ポイントつければ、社会主義革命でも何でもやるのではないだろうか。かようなおばさんたちが革命の闘士になってブルジョア学者の首を物干し竿にひっかけて踊りまくる図が浮かんだ。ロシア革命の時代はロボット勃興の時代であって、社会主義革命もある程度はロボット的なるものの為業である。だからこそ、上のような怨恨としての「霊魂」もまた単独で復活したのであった。

機械の輝きに対して、我々の思考は虚構に向かっている。学者でも、どこかしらネタ感のあることを言う学者だけが真の学者だった。いままでの経験からして。そしてそれに一見近いネタ学者というのもいる。バットに乗せる勘はよかったが、ファールをホームランと勘違い、堂々3塁にまずは走るみたいな学者である。彼らは観客のブーイングも逆に歓声に聞こえる。かれらは少しずれただけで可能性の中にはいるのである。霊魂は静かにするのをやめて、生成する何者かとなったのである。

一方で、機械の関係は、現実問題として、我々を変形している。我々はもとより対象や相手に即して変形してしまう存在なのであった。我等がロボットみたいになっているのはそのせいであり、そこに自由はない。上のようなロボットによる暴力がない代わりに我々自身が機械に置き換わる。もはや、「自由」みたいな感じは共通基盤や常識の上に実現しやすいと感じられ、その「自由」に対する感覚は持続している感覚とよく似ている。革新も保守も、持続に向かって戦うのである。

最近テニヲハを間違えてないはずなのにワープロ打つ手が間違えて動いていることが多い。年齢を重ねたからもあるけど、もともとそういうもんだというのは、ピアノを練習してた若い頃から知ってたといえば知ってた。そういえば、朝比奈隆とか岩城宏之の演奏って思春期の頃はぴんとこなかったけれども、中年になって、彼らがわりとわたくし自分の妄想演奏に近いことやってるのを発見することがあった。ここでいきなりナショナリストに変貌する人もいるんじゃないだろうか。我々の感覚とは一体何だろうか。

大衆・個人・棒

2022-10-12 23:31:41 | 文学


なほ長生きを恨み、諸神・諸仏をたたきまし、「七日がうちに」と、調伏すれば、願ひに任せ、親仁眩瞑心にて、各々走けつけしに、笹六、うれしき片手に、年頃拵へ置きし、 毒薬取り出し、「これ、気付あり」と、素湯取りよせ、噛み砕き、覚えず毒の試みして、忽ち、空しくなりぬ。 さまざま、口をあかすに、甲斐なく、酬、立所をさらず、 見出す眼に、血筋引き、髪、縮みあがり、骸体、常見し五つがさほどになりて、人々、奇異の思ひをなしける。そののち、親仁は、諸息かよいで、子は先だちけるをしらで、これを歎きたまへり。

親が死ぬことが条件の金を借りて親を毒殺しようとしたところ、つい毒味のつもりでその毒薬を飲んで自分が死んでしまった「本朝二十不幸」の冒頭の話。で、貸した方は生き延びている親から金を取り立てることは出来ないので、そんな欲のある仕事は駄目だよと話がしめられるわけだが、――考えてみると、金貸しもそうだが、この話にはしっかりした人間が誰もいないのだ。親も息子も周りの人間も程度の差こそあれどこかいい加減である。戦時下の太宰治の注目は、西鶴の話にこういう〈全員微妙〉という話が散見されることにあったのかもしれないが、しかし、これが、いくら戦争中であっても、太宰の話のように皮肉としての笑い話で済んでいる場合はまだ日本人にとってよかったともいえるかもしれない。まだ、大衆の時流(戦争)に乗らないいいかげんさという持続力があるように思えるからである。

考えてみると、大衆社会みたいな漠然とした視角を保っているから、西鶴も太宰もみんな駄目だねえ、というため息をついていればよかったのではないだろうか。戦争の前には一見平和ぼけとは思えない、戦争についての長い論戦がそこかしこで行われていた。日中戦争、太平洋戦争より以前の言論の血なまぐさというのは本当に流血沙汰だったし、しかも永い間続いた。で、そういう長い論議というのはやたらこまけえ神経質な戦いになっていて、――そんな状態で一発物理的にぶっ放したり飛んで来たりすると、それはその神経質な神経に衝突した爆音みたいなもので、我々の判断力はヒステリックに壊れるのである。真剣に論議すりゃいいというものでもないのだ。

むずかしいものである。あまりに元気がよい阿呆な意見というのは「バカかこいつは」としか評しようがなかったりするけれども、それを言ってしまうと焚き火にガソリンをぶっかけるようなものだ。だからといって褒めるわけにもいかず、理知的な褒め殺しとかはすっとこどっこいには通用しない。ついこちらの怒りだけを悟られてしまうであろう。がっ、無視したら怒られそうである。一緒に飯食うのがよいという説もあるが、そりゃそこらの食べると頭が働く類いのひと同士のはなしで、それが難しい場合も多い。過去を振り返ってみるに、案外、食事というのは禍根を残すものだとわたくしは思う。

しかも食事での雑談や井戸端会議は、虚実のあいまいなところが面白いので、議論は意図的にただのファクトを避けるようになるのであった。しかもわれわれは、こういう雑談さえ今や苦手であり、雑談が出来ないのにコミュニケーションとかいうても無理、というのが自明の理であるという、この世の常識が分からなくなっている。だから、コミュニケーションをいつまでたっても、言ったとおり、書かれているとおりにとるという夢の周りを旋回する人たちがふえている。かくして、そこから、きまじめなコミュニケーションによって合意形成をはかるみたいなことを言い始める人間が分岐して現れる。これは言語の行為としては行動的に見えるが、その実逆であって、合意形成とか課題解決とかに苦労するみたいな自意識に苦しむようになってから、我々は全体的に体が動かなくなってしまったのである。それは、考えるのに時間がかかるというのではなく、問題提起の自由がないのに解決能力があるはずがないという自明の理に過ぎない。問題提起と解決はつねにセットになっているから我々は行動可能なのだ。問題がどこから沸いてくるか分からない現実をふまえろということまでは分かるが、そのあとの問題の析出が解決する人間に絶対的に任されていないのだからこまったものである。そして、その析出係たる人間たちは、井戸端会議をできるレベルで有能であり、必然的にファクトから遠ざかろうとしている。

これはすべてわれわれが大衆社会を肯定して、つまり他人を当てにして、問題提起や解決を他人に任せて生きるのが楽だと思っているから起こっている悪循環ではなかろうかと思う。

この前映画で見た『破戒』がかかれた頃、つまり明治三十九年頃であるが、「野菊の墓」、「肉弾」、「号外」、「坊っちゃん」、「草枕」、「神秘的半獣主義」「国体論及び純正社会主義」が発表されている。それにしても、息もつかせん勢いである。そこには、大衆はだめだねえ、という嘆きはなく、迫り来る個人に対する戦いがある。権力であっても個人の顔をしている。

先日、藤村の作品はどこか全体的にどこでもない場所みたいな雰囲気だと述べた。このどこでもない場所への追求は、「新しさ」みたいな観念を伴っていたし、なんとしても個人として生きたいという願いにつきうごかされていたに違いない。しかし、そう事態は簡単でもないようだ。柳田國男の「重い足踏みの音」という藤村についての回想文がある。これがすごい文章で、我々が人間をみるというか友人をみる見方そのものが、なんとなく陰影をなくしているのがわかろうというものだ。柳田は藤村の創作を禅みたいな態度だとみていた。藤村のいわゆる「こんな私でもなんとか生きたい」という苦悩に罪と罰の問題を見る人は多いだろうが、柳田はそれを禅的だという。それは確かに鋭いな思うと同時に人間の平凡さに着目した見方であるとも思うのだ。柳田によれば、東京人としての藤村はなにか独特な苛々した不自然さ?(うまく要約できんが)があったみたいであり、これは本当じゃないかと思う。都会での社交が暴力的なかんじになってしまう一方で、山村の名家の中でなら美徳を発揮出来ただろうと柳田は言う。いや、暴力的とは柳田は言ってないか。。。そこらは柳田の言い方はそれこそ藤村とは違った、お国柄や土地との関係を捨象できないただの人間としての「描写」なのであり、――柳田にとっては、木曽人みたいな前近代?を引き摺った藤村が、「禅」の行為者としてみえたのである。また、柳田の『破戒』評をみると、作品が風景描写的なのに、だからこそなのか微妙な嘘が混じっていて、実際と違うというと批判している。柳田が見聞きしたいわば「本当」の現実はこれまた柳田らしく、いわば観察可能な平凡さがある。藤村が自分の輪郭を空想しているのに、柳田は大衆社会をみていたのだ。我々の持っている視角は、民俗学的な興味を失って薄まった柳田的な視点である。

我々はそこで、大衆を無視した出家的なありかたを目指してしまいがちだが、別の山岳を目指すという手もある。久谷雉氏の『影法師』は確かに山岳の縦走みたいなとことがある。

鳴らさずに、
峠をいくつも越えられる、棒をかゝへて浮いたまゝ。

あのヘルメットをかぶった人たちだつて
棒を呑んだら魚になれるよ、


――「雲雀」

堕落

2022-10-11 23:40:16 | 思想


堕落せよ、男子が堕落しつつある間どこまでも平等に平行線をなして堕落せよ。女学生の堕落や質は進化にして誠に以て讃美すべしとせん、讃美すべきかな。

――北一輝「国体論及び純正社会主義」


そういえば、坂口安吾の堕落はどこか抽象的な感じがするけれども、こちらは男女の――よけい抽象性があるのかもしれない。確かに堕落や落下で平等は実現するというのはあるわな。優とか秀とかはあるが、不可は平等であるからして。

さんざいわれてることだが、近代文学が近世文学のあとで、あらためて、近い過去の作品を読み直して始まったことはすごく重要なことであった。遠い過去から出発するがごとき「王政復古」としての「近代化」は、近い過去の文学の読み直し(というか、だいたいの人は初めて読んだ)から始まった。否定すべきものなのかもしれないものから出発したのであり、結果的に文体においても内容(倫理的感覚)においても近代文学は亜近世文学的側面が強いという側面がある。時代順だから当然なことに見えるがそうでもない。進化というより本質的らしい理由を掲げての改良だったので、時代はどうでもよかったはずなのである。対して、ある意味で、「王政復古」は初等教育なんかできちんと復活したので、文学は、それと対峙させられる。ここには、堕落すりゃいいとか生に正しく落ちぶれるみたいなモメントが発生しにくい。それは、学校教育的には正規のルートから外れた安吾みたいな人しかいえなかった。「破戒」の作者は、そこまでいかず「破戒」を繰り返すことに終始したようにみえる。それはモラルから堕落でありモラルへの堕落でもあって、あっちの木からこっちの着に飛び移る動作である。

北一輝のように堕落の果てになにか天皇や社会主義が待っているような気になる人もいるかも知れないが、彼らは多くない。

われわれは、社会か家庭かみたいなところまで追いつめられている。学校化が余りに進みすぎたせいであろう。「実践的な研究みたいな研究」がいやなのは実践そのものの報告に嘘が混じるということもあるが、参照物として大物が引かれて「おいっ」という感じがするからである。おまえはソクラテスじゃねえよ、ルーマンじゃねえと。まだマルクス盲信いたす突撃しますのほうが人間として友達になれそうである。しかしその盲信突撃の人が社会にも家庭にも居場所がないのだ。つまり、哲学や文藝批評に行って一生人文ナントカを伴侶にするつもりの人が、いまや家庭向きという感じがするのだ。哲学や文学に人肌を感じる感覚の面白い人だから、そしてそれは家庭生活とあんまりかわらないのである。よって、非婚や少子高齢化に歯止めをかけるためには、合理的に人生を快感を軸に幸福にしようとするサイエンスでは逆効果であり、プラトンやランボーの文章で興奮する変態的な人こそを生産した方がいい。

むろん、それでは駄目なのである。おれもむかしやらかしたことあって切腹したいけど、――対話が大事とか言いたいためにソクラテスやプラトン引くひと、あれだよな。人類の頂点的頭脳が対話したからといって、お前が対話しても何もでてこんわ。このおかしさが、学問への執着が人肌への執着と化したおかしさなのである。

おれが文学部入って、文芸批評のロジックについて研究したいとかあほなこと言ってたころショックを受けたのは、柄谷行人の「畏怖する人間」に性的なものを覚えると言ってた女子がいたからだ。こりゃとんでもないところに来たぞとおもった。むかし宮台真司氏が、「文学少女はエロティックでいいよね」とか言っていたが、まあそういう意味で真実にみえる。がっ、私の経験だと文学少女は逆鱗のポイントも言葉の世界にあるのでエロティックだからいいよねではすまない。だいたい文学少年たる自分を内省してみりゃわかる。柄谷氏の初期評論は果たしてエロティックなのであろうか。どうもそう思えないのである。柄谷氏がなにか美男子だったという単純な理由なのかも知れないなら、それでもいいのだ。我々はそうすると、自分のエロティックな部分から独創性を発揮しなければいけないのであろうか。わたくしは、正直なところ、LGBTQの議論もそういう危うさと困難を持っていると思うのである。

正直な鏡

2022-10-10 23:36:38 | 文学


何やかや取集て。四百色ほどひろひたる。亭主きもをつぶして。珍敷お客と。近所の衆に語れば。是ためしもなき事也。はるばる正直にくだる心ざし。咄しの程に。ひろはせよと。小判五両出し合。ひろはせける。それより次第に。ふつきとなつて。通り町に屋敷を求め。棟にむね門松を立。廣き御江戸の。正月をかさねける。

いまどきは金を拾うのがよしといわれて正直にそれにしたがっていたら、みんなに慕われて大金持ちになったという話である。この場合の「正直」は、自分に正直というのは違い、人の言うことを疑わずにそのまま従ってしまう心のことであるが、あまりにも馬鹿正直なところがかわいく見えてみなかわいがってしまう。

島崎藤村の「破戒」も、友人の銀之助や農民たちや子どもたちは「正直」な人ということになって、どちらかというと素直というかんじなのであるが、――主人公が「正直」さを乾坤一擲の行為として表現するとなると、話は違ってきた。それは社会を立て直すモラルとしての武器である。藤村の新しい言葉とは、その正直な感じと触れあっている。外界のパノラマを内面のように映し出す心は、煩悶する。煩悶とはそういう鏡のような経験なのである。市川崑の映画『破戒』は、宮川一夫のすごいカメラによって、その鏡のような内面を映し出していた。最後のシーン、多くの感情や事物がカメラに映っていた。そしてその向こう側に丑松が去り、我々のほうがその煩悶を部落差別が吹き荒れる世の中として引き受けるのである。

今日は細と間宮祥太郎主演の『破戒』を観てきた。

映画の『二十四の瞳』や『金八先生』を通過したこの世の中では仕方がないのかも知れないが、学校世界は、世の中よりも大きくなった。市川崑の頃までは存在した、学校よりも大きい因習の世界がなくなり、学校が因習となったのだ。そのありかたは『破戒』よりも『坊っちゃん』にちかいものだ。そのあり方は煩悶する間宮氏ではなく、「坊っちゃん」化した矢本悠馬氏の銀之助が支えている。学校世界=世の中の世界では、丑松を画面の向こうに孤独に追いやるわけにはいかず、寄り添わなくてはならない。お志保と一緒に丑松は去るし、画面も明るかった。

劇場は結構嗚咽だらけであったが、この小説の世界に対しては、涙が引っ込んでも泣いている場合ではないのだから、もはや違うものを観客は観ていたのであろう。「二十四の瞳」もそうだけど、映画化の度に表現されなかったことが増えてるのは考えもんだ。現代人にも分かるように、というより問題の単純化がなされている。特に、丑松までもその一部であるところの天皇の帝国主義はまるでなかったことになっている。

そういえば、今回のは『破戒』の初のカラー作品である。カラーになって、ひとつの場面にあるものが増えているというのもあって、画面そのものが重く感じられる。あとあれだな、ステレオ音響というのも、語り手の有り様の変容のレベルで重大な変化だったようにおもえるな。とくにステレオである必要のない映画を見るとそんな気がする。――モノラル・白黒のときの方が人間が容易に画面の黒に溶け込む感じがして、その黒や音が観客を襲う感じだった。だから言外の心理みたいなものが逆に効果的に仄めかしやすいというのはあるかもしれない。しかし、今回はまるで極彩色の絵を見ている感じである。もっとも、明治の文学にあった深刻なテーマと対照的な語りガチャガチャしたかんじはかえってカラー的なのかもしれない。ついに、われわれは明治人が感じていた、「正直」な鏡が映し出すものによって身を裂く煩悶を「見える」ようにしてしまったのかもしれず、それは一つ一つが多く、重く、いちいち見きれない。だから、いろいろなものを省く癖がついているのかも知れない。

しかし言葉は省略出来ない。

 斯う言つて、名残を惜む生徒にも同じ意味の言葉を繰返して、やがて丑松は橇に乗らうとした。
『御機嫌よう。』
 それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であつた。
 蕭条とした岸の柳の枯枝を経てゝ、飯山の町の眺望は右側に展けて居た。対岸に並び接く家々の屋根、ところどころに高い寺院の建築物、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽かに白く見渡される。天気の好い日には、斯の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇は雪の上を滑り始めた。

私的唯物論

2022-10-09 23:36:08 | 文学


ひとりすぎ程。世にかなしき物はなし。河内のくに。平岡の里に。むかしはよしある人の娘。かたちも人にすぐれて。山家の花と所の小哥に。うとふ程の女也。いかなる因果にや。あいなれし男。十一人まで。あは雪の消るごとく。むなしくなれば。はじめ恋れたる里人も。後はおそれて。言葉もかはさず。

近世文学を読んでいると、我々が研究で攻撃したりもする我々の世間的常識みたいなものの存在感を感じる。平安や鎌倉時代の文学を我々がなんとなく開放感を感じて読むのは、その存在感が希薄というのがあるのかもしれない。「身を捨てて油壺」なんて、のっけから、ひとが独身でいるとろくなことはないみたいな宣言から始まっている。その例が美人である。十一人ものの男が不審な死を遂げて独身を続ける彼女は「山姥」みたいな者になり、神社の境内で躊躇いもなく射られる。

ねらひすましてはなちければ。彼姥が細首おとしけるに。そのまゝ火を吹出し。天にあがりぬ。夜あけてよくよく見れば。此里の名立姥也。是を見て。ひとりもふびんといふ人なし。

ひとりくらいは不憫だと思う者がいたにちがいないのに、この断定である。我々にとって不思議なのは、案外江戸時代なのだ。我々にとっての唯物論的なものは、こういう神も仏もないせりふを公然と言い放つ我々の「私的」なメンタリティなのである。それをわたくしは私的唯物論と呼びたい。

そういえばアメリカンコミックの「スーパーマン」に似た話として、我が国には「静かなるドン」がある。昼間はサラリーマンで夜はヤクザのドンの男の話である。スーパーマンは、昼間でもいざとなったら着替えて飛んで行く柔軟性があるが、後者は退勤まではニコニコした小男に過ぎない。しかし家に帰るとなく子も黙る総長である。――考えてみると、あれがわれわれの「私的」理想像で、仕事から解放されるとヤクザになる。というわけで、仕事とプライベートの両立だのなんだのいう人間はヤクザじみているとみている。あたりまえだが、労働の問題は、労働以外の時間に我々がどのような人間であるのかが問題にならなければ、人間的な問題とはならない。しっかりワークライフバランスをとるようになったら、労働者として本質的に劣化したみたいな現象が起こるのは、そのせいである。

報復+1

2022-10-09 02:04:46 | 文学


今はむかしのごとく。継母髪をのばし。いたづらを立。世にさかゆる時。まゝ子の幽霊きたつて。軒端より。息吹かゝるに。母のかしらにくはゑん燃付。いろいろけしてもとまらず。形も残ずなりぬ。

報復譚の一つである「執心の息筋」は、報復が最後に急激に起こるのでびっくりする。しかし、実際報復に至る過程の方がいつも長いのだから当たり前だ。復讐OKの社会が今も昔もうまくいかないのは、報復が一瞬であるのに、それまでが異様に長く、その長い苦しみはいつまでたっても報復によって解消されないからでもある。むしろ、報復しないとなにもなされないならば、苦しみの間は耐えろといっている社会になってしまう。いまでもそうなのである。

上の話は、継子いじめの復讐であるが、継子いじめが殊更我々の社会でフィクションの重要な位置を占めてしまっているのはなぜであろうか。容易に一般化してはならないが、昨今の宗教2世問題は、親が宗教者ではなくても存在している。親が宗教的な束縛として存在するのはなぜかである。宗教2世問題は、子どもが洗脳から解けた場合、精神的な帰る場所がないことが重要視されている問題で、人権を越えた人格問題である。我々の社会の場合、人権が人格の保証と結びついていないことも多いが、さいきんその兆しが見られるようになったきた。

私のまわりでは、2世問題は、学生の就職活動に絡んでいる。就職は、単に食べるための問題ではなく、親からの引き継ぎ問題になっている学生がかなり散見される。親の職業が精神的な帰る場所になっている学生にとっては、これは生存を駆けた活動なのである。なぜ、こんなナンセンスなことになってしまったのか。ひとつは、われわれからなんとなく「日常生活」の決まり切った流れが寸断されているというのがあるかもしれない。少なくとも、意識上、「変転激しい日常」というものがあるからである。しかし、これは、変転ではない。むしろ、外部からの意識への干渉の効果なのである。トラブル処理というよりもコンプライアンス違反みたいなものに怯えるということである。これには、個人では対応出来ない。以前は、「父」的な権威がその違反など撥ね付けていたのである。

賢一郎 新! 行ってお父さんを呼び返してこい。
(新二郎、飛ぶがごとく戸外へ出る。三人緊張のうちに待っている。新二郎やや蒼白な顔をして帰って来る)
新二郎 南の道を探したが見えん、北の方を探すから兄さんも来て下さい。
賢一郎 (驚駭して)なに見えん! 見えんことがあるものか。
(兄弟二人狂気のごとく出で去る)


――「父帰る」


この戯曲は、家父長制のありかたをよく示しているとはいえようが、もっというと、「父」は子に容易に移動し、また「父」に移動しうることを示しているような気がする。息子の賢一郎は、放蕩親父のかわりに「父」になっていた。しかし、父が帰ると案外簡単にその座から滑り落ちてしまう。かかる「父」を維持するために、戦後世界は、そこに職業や学歴を与えた。

「執心の息筋」の話が、「父」の死去から始まっているのは当然のようで、重い。息子の継母への復讐は、「父」の復活である。先の暗殺事件を想起させる構図である。安倍元首相には子どもがいなかった。このことが、彼の命が絶たれることを容易にしている可能性がある。復讐がありえないからである。