「神秘の短剣」の最後にさらわれたライラを探してウィルがさまよい、ライラをめぐってアスリエル卿と教会側が争奪を繰り広げ、ウィルはライラ救出後ライラとともに死者の国へ行って幽霊たちを解放し、メアリー・マローン博士が「ダスト」の究明を続ける世界にたどり着いてライラとウィルが愛に目覚めるが・・・というお話。
3部作の完結編ですが、完結しても、シリーズの通しテーマのはずのダストの正体と、ダストの異常な動きが回復する理由、魔女の予言にあった、教会側も恐れていたライラの使命も、釈然としません。お転婆娘ライラが思春期になり愛に目覚め少年と結ばれるのが、ダストの異常を元に戻し人類を救うこと(教会側からは人類を堕落・破滅させること)なんですか?1巻、2巻と大風呂敷を広げたのが巧く収拾できずに、児童書だからこれくらいでいいかって適当にぶん投げた感じがします。
この「琥珀の望遠鏡」では、ライラは前半「いばら姫」状態ですし、後半もウィルに付き従うだけで、自信に満ちたライラは消え去り自信なげにおびえるライラばかりです。これまた「ライラの冒険」と呼ぶのはかなりの違和感を覚えます。この流れだったら、何がライラの使命だったにしても、ライラが果たしたのではなくてウィルとライラが果たしたと評価すべきですし、それなら最初から「ウィルとライラの使命」でライラが「イヴ」ならウィルも「アダム」だと予言しておくべきでしょう。
そして、その野心と狡猾さで怪しげな魅力を振りまくコールター夫人も、結局は、突然の母性愛で毒気が抜かれ、やはり誇大妄想とも言うべきスケール感で圧倒的な存在感のあったアスリエル卿もあっけないし、1巻で設定したキャラの魅力が活かされない感じというかキャラ設定が裏切られる感じがします。
形式面でも「琥珀の望遠鏡」になって突然、章ごとにエピグラフがついて衒学趣味的な感じが強まり、児童書として読みにくくなっています。
3巻を通して一貫しているのは、児童書にしては異例に強い反教会の姿勢、特に神をあっさり崖鬼に喰わせたり天上界を敗北させる大胆さくらいでしょうか。

原題:THE AMBER SPYGLASS
フィリップ・プルマン 訳:大久保寛
新潮社 2008年7月30日発行(単行本は2002年、原書は2000年)
3部作の完結編ですが、完結しても、シリーズの通しテーマのはずのダストの正体と、ダストの異常な動きが回復する理由、魔女の予言にあった、教会側も恐れていたライラの使命も、釈然としません。お転婆娘ライラが思春期になり愛に目覚め少年と結ばれるのが、ダストの異常を元に戻し人類を救うこと(教会側からは人類を堕落・破滅させること)なんですか?1巻、2巻と大風呂敷を広げたのが巧く収拾できずに、児童書だからこれくらいでいいかって適当にぶん投げた感じがします。
この「琥珀の望遠鏡」では、ライラは前半「いばら姫」状態ですし、後半もウィルに付き従うだけで、自信に満ちたライラは消え去り自信なげにおびえるライラばかりです。これまた「ライラの冒険」と呼ぶのはかなりの違和感を覚えます。この流れだったら、何がライラの使命だったにしても、ライラが果たしたのではなくてウィルとライラが果たしたと評価すべきですし、それなら最初から「ウィルとライラの使命」でライラが「イヴ」ならウィルも「アダム」だと予言しておくべきでしょう。
そして、その野心と狡猾さで怪しげな魅力を振りまくコールター夫人も、結局は、突然の母性愛で毒気が抜かれ、やはり誇大妄想とも言うべきスケール感で圧倒的な存在感のあったアスリエル卿もあっけないし、1巻で設定したキャラの魅力が活かされない感じというかキャラ設定が裏切られる感じがします。
形式面でも「琥珀の望遠鏡」になって突然、章ごとにエピグラフがついて衒学趣味的な感じが強まり、児童書として読みにくくなっています。
3巻を通して一貫しているのは、児童書にしては異例に強い反教会の姿勢、特に神をあっさり崖鬼に喰わせたり天上界を敗北させる大胆さくらいでしょうか。

原題:THE AMBER SPYGLASS
フィリップ・プルマン 訳:大久保寛
新潮社 2008年7月30日発行(単行本は2002年、原書は2000年)