システムエンジニアとして関東で稼働する全盲の兄浩を同居してサポートするためと言って、30歳近くなりながら働かずにニートでいる稔が、福岡住まいの母美穂が、死んだ養母佐恵子の一人住まいしていた離島の「古か家」の物(遺産)を整理するのに付き合わされ、祖母とのおぼろげな想い出や昔の友人との邂逅等に浸り記憶を呼び戻されながら、現在の屈折した思いと将来への不安を、「やぜらし」いが避けるべくもないあるものとして受け入れていく様子と、稔が中学のときに一人で佐恵子を訪れた際のすでに認知症が進んだ佐恵子の様子を交差させた小説。
稔たちの片付けと母美穂、その叔母であり実は母という敬子、旧友の卓也らとのやりとりなどの時間経過の中で、稔が屈折した思いから、人生には様々なうっとうしいけれども受け入れざるを得ないことが数多くあることを悟り受け入れる気持ちになる心の変化を描いた作品だろうと思います。十数年前の生前の、しかし認知症が進んだ佐恵子の心情を挟むことで、なんとなく稔の変化を自然にする効果があるような気もしますが、理論的には、それは佐恵子のエピソードで、稔はそれを知るわけでもないのですから、関係がないわけです。そのあたりの、なんとなくと、理屈に合わないの間で、十数年前の佐恵子のエピソードが意味があるのかどういう意味を持つのかを、あえて巧みと評価するか、据わりの悪さを感じるかで、評価が分かれる感じがします。
この作品のキーワードとなる「やぜらしか」は長崎・熊本(あるいは鹿児島とも)の方言ということですが、佐恵子(老人)の言葉の一部を除けば、会話は基本的には博多弁で書かれていて、私(1983年8月~1984年11月の実務修習を福岡でやりました)には、会話自体が懐かしく思えました。
古川真人 新潮社 2017年7月30日発行
「新潮」2017年6月号、第157回芥川賞候補作
稔たちの片付けと母美穂、その叔母であり実は母という敬子、旧友の卓也らとのやりとりなどの時間経過の中で、稔が屈折した思いから、人生には様々なうっとうしいけれども受け入れざるを得ないことが数多くあることを悟り受け入れる気持ちになる心の変化を描いた作品だろうと思います。十数年前の生前の、しかし認知症が進んだ佐恵子の心情を挟むことで、なんとなく稔の変化を自然にする効果があるような気もしますが、理論的には、それは佐恵子のエピソードで、稔はそれを知るわけでもないのですから、関係がないわけです。そのあたりの、なんとなくと、理屈に合わないの間で、十数年前の佐恵子のエピソードが意味があるのかどういう意味を持つのかを、あえて巧みと評価するか、据わりの悪さを感じるかで、評価が分かれる感じがします。
この作品のキーワードとなる「やぜらしか」は長崎・熊本(あるいは鹿児島とも)の方言ということですが、佐恵子(老人)の言葉の一部を除けば、会話は基本的には博多弁で書かれていて、私(1983年8月~1984年11月の実務修習を福岡でやりました)には、会話自体が懐かしく思えました。
古川真人 新潮社 2017年7月30日発行
「新潮」2017年6月号、第157回芥川賞候補作