2009年4月から既に5年以上にわたり東京高裁第22民事部の部総括判事(裁判長)を務める著者が、民事裁判の事実認定についての理論的な側面を学説と判例を検討して論じるとともに、現場での事例と感覚を紹介しつつ事実認定の実務・実情を論じた本。
この本全体では理論的な検討部分の方が多いのですが、弁護士としては、証拠書類や証人の信用性の評価に関する部分が大変興味深く、ためになります。実務の経験上実感し、度々依頼者に言っていることですが、裁判官からハッキリ書かれると、重要性を痛感する点が多々あります。例えば陳述書の信用性について。「長いばかりで、論旨が明らかでない陳述書は、裁判官に(相手方にも)要証事実は認めがたいという印象を与える。」「効果的で、高い証拠評価を得る陳述書とは、どのようなものか。一言でいえば、その本人、その証人でなければ認識することができない事項が盛り込まれているものである。」(113ページ)と述べた上で、婚約不履行の事件で暴力を振るわれたことが決定的な破綻要因となったと主張する者の陳述書が「その暴力の内容は、男性がマンションの居室の中でテーブルをひっくり返した、テーブルの上に置いてあったCDや雑誌を投げつけられたというもので、自分は翌朝、愛想を尽かしてマンションから出ていきました」という内容であった事例を取り上げ「裁判官は、この陳述書を読んで、Xの体験した出来事は迫真性を伴う形で裏付けられてはいないと感じた。」としています(115ページ)。それは、ひっくり返したというテーブルはどれくらいの大きさか、ひっくり返したときに何が載っていたか、テーブルの上に載っていた物があったとすればその周囲はひどい有様となったはずであるがその惨状はどのようなものであったか、翌朝、ひっくり返したテーブルはどうなったのか、誰かが片付けたのか、CDや雑誌を投げつけられたというがよけることができたのか体に当たったのか、体に当たったとしたら痛かったのか、怪我をしたのか、よけたとしたらそれは壁に当たったのか、床に当たったのか、壁や床に当たったとしたら傷が付いたのかというようなことが書かれていないためで、著者は「以上のような事項が具体的に記載されていない陳述書は作文に等しい。」と断じています(116ページ)。ディテールが重要、陳述書は細部が命なんですが、ただそのディテールを覚えていないと言い、抽象的なことや自分の評価・相手の悪口ばかりたくさん言いたがる当事者が実に多いんですねぇ。これが。
また、銀行員がハイリスクの金融商品を売りつけた事件で、原告が「担当者は、本件仕組債は『3年の定期預金と同じようなもの』と説明した」と主張していたところ、本人尋問では「担当者から『定期預金と言われた』」と供述した事例を挙げて、「『定期預金と同じようなもの』と『定期預金』とでは、その意味合いは全く異なる。Y銀行の担当者が『定期預金』といったとすれば、それは虚偽であり、詐欺的な欺罔行為である。銀行担当者が、当該金融商品についてこのような虚偽事実を告げる蓋然性は低いといえる。」と述べられ(134ページ)、他の事例を引いたところでは、「一つ嘘をつく当事者は、ほかでも嘘をつく蓋然性が高いとみられる」(197ページ)とされています。前者はやや言葉尻を捉えた感があり、法廷での独特の緊張から言葉が不正確になる当事者は多数見られ、また勢いで言葉が過ぎるケースはよく見られます。それでも、裁判官は、どんな些細なことであれ、嘘をついたという確定的な心証を採ると、その人の主張全体を嘘と見なす傾向があります。この本でも「自分は悪くない、相手方がひどい」ということを強調したいがための過剰な主張がいかに不利を招きかねないか、そういった主張にこだわる依頼者に弁護士がどう対処すべきかについて示唆をしています(232~233ページ)。
ここで紹介しなかったことも含めて、弁護士にとっては民事裁判を行う上で非常に参考になる本です。法律実務業界人以外には読み通すことがほぼ不可能な本だとも思いますが。
加藤新太郎 弘文堂 2014年6月30日発行
この本全体では理論的な検討部分の方が多いのですが、弁護士としては、証拠書類や証人の信用性の評価に関する部分が大変興味深く、ためになります。実務の経験上実感し、度々依頼者に言っていることですが、裁判官からハッキリ書かれると、重要性を痛感する点が多々あります。例えば陳述書の信用性について。「長いばかりで、論旨が明らかでない陳述書は、裁判官に(相手方にも)要証事実は認めがたいという印象を与える。」「効果的で、高い証拠評価を得る陳述書とは、どのようなものか。一言でいえば、その本人、その証人でなければ認識することができない事項が盛り込まれているものである。」(113ページ)と述べた上で、婚約不履行の事件で暴力を振るわれたことが決定的な破綻要因となったと主張する者の陳述書が「その暴力の内容は、男性がマンションの居室の中でテーブルをひっくり返した、テーブルの上に置いてあったCDや雑誌を投げつけられたというもので、自分は翌朝、愛想を尽かしてマンションから出ていきました」という内容であった事例を取り上げ「裁判官は、この陳述書を読んで、Xの体験した出来事は迫真性を伴う形で裏付けられてはいないと感じた。」としています(115ページ)。それは、ひっくり返したというテーブルはどれくらいの大きさか、ひっくり返したときに何が載っていたか、テーブルの上に載っていた物があったとすればその周囲はひどい有様となったはずであるがその惨状はどのようなものであったか、翌朝、ひっくり返したテーブルはどうなったのか、誰かが片付けたのか、CDや雑誌を投げつけられたというがよけることができたのか体に当たったのか、体に当たったとしたら痛かったのか、怪我をしたのか、よけたとしたらそれは壁に当たったのか、床に当たったのか、壁や床に当たったとしたら傷が付いたのかというようなことが書かれていないためで、著者は「以上のような事項が具体的に記載されていない陳述書は作文に等しい。」と断じています(116ページ)。ディテールが重要、陳述書は細部が命なんですが、ただそのディテールを覚えていないと言い、抽象的なことや自分の評価・相手の悪口ばかりたくさん言いたがる当事者が実に多いんですねぇ。これが。
また、銀行員がハイリスクの金融商品を売りつけた事件で、原告が「担当者は、本件仕組債は『3年の定期預金と同じようなもの』と説明した」と主張していたところ、本人尋問では「担当者から『定期預金と言われた』」と供述した事例を挙げて、「『定期預金と同じようなもの』と『定期預金』とでは、その意味合いは全く異なる。Y銀行の担当者が『定期預金』といったとすれば、それは虚偽であり、詐欺的な欺罔行為である。銀行担当者が、当該金融商品についてこのような虚偽事実を告げる蓋然性は低いといえる。」と述べられ(134ページ)、他の事例を引いたところでは、「一つ嘘をつく当事者は、ほかでも嘘をつく蓋然性が高いとみられる」(197ページ)とされています。前者はやや言葉尻を捉えた感があり、法廷での独特の緊張から言葉が不正確になる当事者は多数見られ、また勢いで言葉が過ぎるケースはよく見られます。それでも、裁判官は、どんな些細なことであれ、嘘をついたという確定的な心証を採ると、その人の主張全体を嘘と見なす傾向があります。この本でも「自分は悪くない、相手方がひどい」ということを強調したいがための過剰な主張がいかに不利を招きかねないか、そういった主張にこだわる依頼者に弁護士がどう対処すべきかについて示唆をしています(232~233ページ)。
ここで紹介しなかったことも含めて、弁護士にとっては民事裁判を行う上で非常に参考になる本です。法律実務業界人以外には読み通すことがほぼ不可能な本だとも思いますが。
加藤新太郎 弘文堂 2014年6月30日発行
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