東北管区教化センター「こころの電話」の原稿です。5月1日~10日まで流れています。お暇な時にどうぞ。
私が一年で最も好きな季節を迎えました。
大好きな山菜の季節の到来です。
子供のころ、三本鍬をかついで山に入り、雪の下から「ひろこ」を掘り出して食べた記憶があります。アサツキのことですね。一番速い春の食べ物でした。
その後、コゴミ、ワラビ、アイコ、クワダイ、シドケ、木の芽、タケノコなどが続きます。新鮮な山菜のいただける環境に暮らしていることを心から幸せに思います。
考えてみれば、今や山菜は、最も贅沢な食べ物ではないでしょうか。人の手を加えない、全く自然のままの食べ物といえば、魚の一部と山菜ぐらいのように思います。
最近は、山菜にも栽培ものがありますが、やっぱり山から採ってきたものとは味が違いますね。
春の山菜は、いわば全てが植物の新芽をいただくわけで、その姿を見ると、どれもが、これから成長しようとする瑞々しい色と形をしています。まるで赤ん坊の手のようにも見えます。
それをいただくのですから、これほど贅沢でありがたい食べ物はないと、頂戴するたびに思います。
しかも、山菜にはどれもが、それぞれの個性を持った味があります。苦みがあったり、アクがあったり、香りや食感も、「どうだ」と言わんばかりに自己主張しています。
さらには、この時季にしか食べられないという、限定した季節があります。今年の時季が過ぎたら、もう来年を待つしかありません。それが、山菜の味を際だたせているように思います。
「みんな違ってみんないい」とは、有名な金子みすずの言葉ですが、山菜と同じように、人間も、名前の数だけその人の味があるはずです。誰とも違う、誰とも比べられない自分だけの持ち味です。甘いばかりがおいしいのではありません。苦みやアクも、味には必要なのです。
山菜には、動物が春の目覚めに必要な養分が含まれている、と聞いたことがあります。私たちは、今の体に必要だから山菜の味をおいしいと思うのでしょう。
だとすれば、人間だって同じです。今この世に必要だから、私という味は生まれてきたのです。
私たちは今、私にしかない、今生限りの旬の命を生きています。どうか味わってもらいましょう。
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