なあむ

やどかり和尚の考えたこと

大震災97 飯舘村

2011年10月28日 19時26分48秒 | 東日本大震災

昨日菅野村長の話を聴きました。

飯舘村は人口6000人。

公共施設をじゃんじゃん造るような箱物行政はできない。

牛が3000頭いる自然豊かな村で、スローライフを目指そう、と思った。

「スロー」というと、経済的に後退するようなイメージがあって反発があったので、「までい」という方言に注目して「までいライフ」にした。

「までい」とは「真手」からの派生語で、「両手で」「丁寧に」「大切に」「心を込めて」などの意味が含まれている。

までいライフ提唱から7年目だった今年まで、色々な事業を展開してきた。

「までいピンポン大会」。相手の取りにくい球を返して勝ち負けを競うのではなく、相手の取りやすい球を返して、どれだけ長く続けられるかを競う卓球。

「ハーフチケット」制度。文化ホールなどを建設する資金はないが、東京などでの文化施設を利用した時の半券を持参すると、入場料の半額を補助するという制度。施設が無くても文化は養える。

「までい子育てクーポン」。お金そのものを配るのではなく、村内で買い物してもらうことと子育てをセットにした。

などなど、「ないものねだり」から「あるもの探し、あるもの生かし」を目指す事業を行なってきた。それは、大量生産、大量消費の足し算の生き方から、本当に大切なものは何か、を考える引き算の生き方への転換でもあった。

そんな中で原発事故は起きた。

全村避難。避難生活はとてつもなく大変。

知らない土地で痴呆症の進んだ老人。何もすることがないのでパチンコに耽る者。住宅・食事が与えられ、補償金をもらい、働く意欲を失っていく。

避難のストレスの方が放射能汚染より怖いとさえ思える。

でも、国の責任や東電の責任ばかりを追求していても、何も改善されない。

自分たちのことは自分たちで何とかしていかなければならない。

除染で出た土は、自分たちの村内で保管しようと決めた。

そして、最後に、「今回の大事故がきっかけで、日本人が価値観の転換を図り、次の世代の人たちから、あの時の福島の人々の苦しみがあったからこそ、日本は世界から尊敬される国になった、と評価されなければ、今の我々の苦しみはあまりにもつらい」と結びました。

村長と言葉を交わし、「まけないタオル」を飯舘村全世帯、避難している2700軒に配ってもらえるようになりました。

今後の支援活動を模索しています。