Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

長谷川等伯にドキッと…

2010年01月27日 12時22分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 通勤電車の窓からホームの向こうに東京国立博物館の広告「長谷川等伯」が鮮やかに見えた。通勤時の頻繁な列車の往来や人の混雑の中で、ほんの一瞬の偶然だった。
 是非見に行きたいと思っていた企画であったので、その偶然に驚くと共に、雑踏の中での鮮やかな異彩に敬服した。
 「楓図壁貼付」という今回の企画展の目玉作品だが、太い幹の後ろの青い部分がよく目についた。あれは何か、実際に目にして判断してみたい。一瞬の映像だが、あの青い色が印象鮮やかに脳に張り付いた。
 桃山時代の作者としか知らないが、現在の喧噪と色の氾濫の中で負けずに自己主張している。決して際物ではないと思う。

 通勤電車の中で、最近は出版社や博物館・美術館のメルマガに目を通しているとつい、30分が経ってしまう。読書なら時々眼をあげて社外の風景をみるが、携帯のメルマガはイヤホンと同じく社会からの関係やを自ら断ってしまっているのかもしれない。
 一心不乱に携帯のメールやゲームに熱中している人々と自分が同じことをしているのかと思って、反省した。


 いつも不思議に思うのだが、聴覚をイヤホンで遮断し、においのきつい化粧品で周りからの嗅覚を遮断し、目を閉じれば、あとは触覚しか残らない。味覚はこの際省く。
 感覚は刺激が強いほど、長時間さらされるほど麻痺して強い刺激を求めてしまう。
 迷惑なイヤホンの音も、悪臭そのものの化粧の匂いも、声高な会話も、自己と他者の関係の重大な危機、岐路の証左に思えてならない。
 少なくともこれでは危険を感知することもできない。車内での化粧の可否もいろいろ言われているが、マナー云々では話は脇道にそれてしまう。他者との関係を遮断して、一心不乱に自己の所作にのみのめりこむこと、自己を無防備に曝け出すということの可否を喚起することの方が必要な気がする。