薬師信仰と観音信仰が東北は随分盛んだったようだが、その根拠までは私の知識ではわからない。いつか調べられたらいいのだが。
さて次のコーナーは秋田県にある小沼神社にある聖観音菩薩立像(平安時代、10世紀)。小沼神社は菅江真澄が1828年に写生していて、現在もその面影がある場所と解説に記されている。
細身であるものの決してなよなよと弱弱しい感じはしない。朽ちかけているがとても魅力的な肢体である。両手首から先が失われているがどんな手であったのか。復元できるならば嬉しいのだが‥。
突き出た頭頂部には棒状のものがついていたらしく、おそらく地域で信仰されてきた神を招き寄せる依代ではないか、と解説されている。
横浜の弘明寺の十一面観音菩薩立像には鮮明にこの棒状のものがあるとのこと。
そしてこの部分の下には化仏とはちがう顔が彫られている。東北で伝承される「雪ん子」のような小さな目をした顔である。
土着の信仰と、10世紀当時まだまだ浸透しきれなかった仏教との融合、あるいは習合が考えられるという。
岩手県の成島毘沙門堂にある伝吉祥天立像は176センチを超える大きな像で、小沼神社の観音像よりも6センチほど背が高い。しかし実際の人間の体型に近いので親近感がある。
指先が失われているのが残念だが、この手の仕草が魅力である。さらに顔や胸の木目の線が等高線のように像にピッタリの紋様を描いている。特に首下から両の胸乳にかけての木目は見事である。
また何といっても不思議なのが、頭の上の2頭の象の形象。このように象を頭にいただく菩薩などないそうなので実際はどういう類の仏像なのかは不明らしい。背中の造形を見ると背後から手が出ていたことを考えると千手観音の可能性もあるかもしれない。
解説ではこの美しい木目がのこっているのは漆が塗られていた可能性があることが記されている。
次は今回の展示の目玉でもある十二神将立像(丑神、寅神、卯神、酉神)でこれは山形県の本山慈恩寺のもので、鎌倉時代(13世紀)のもの。この寒河江の地には摂関家の荘園があり、慶派の仏師の作と云われる。
薬師如来の眷属である十二神将は仏像としてとても興味深い。力強くそして躍動感あふれる十二の肉体表現は見ていて飽きることがない。一体一体の表情に物語があるようにも見える。
特にこの四体、上半身の躍動感、力強さには圧倒される。多くの十二神将は腰から下に力強さを感じない。この像も同じであるが、それ以上に上半身の躍動感が優っている。
彩色もかなり残っており、それがより生々しい力を感じさせてくれる。
鎌倉時代後半、14世紀に作られたという宮城県給分浜観音堂の十一面観音菩薩立像には圧倒された。高さが約290センチもあり、見上げるような像である。5頭身というスタイリッシュな像ではない。
しかし顔の表情も頭部の化仏も衣もとても新しい。700年以上昔の作品とは思えない状態である。
さらに見上げたときの頭の上にある顔の眼と視線がぶつかる。とても計算し尽くした眼差しである。実は単眼鏡で頭上を除いていたら左右ともに二つ目の顔の柔和な眼が入ってきた時はびっくりした。下から見上げている自分を見透かされたような気がした。いつもどこからみられているような感じを受けた。
1本のカヤの木でできているということで、東北にはない材木である。関東や畿内から材料を運んできたか、制作して宮城県域まで運んだが、いづれにしても都の仏師の存在が必要らしい。
この観音のある給分浜は石巻湾をはさんで、松島・鹽竈・多賀城に相対している位置にある。観音は海を隔てたかなたに浄土を持つといわれていることから、この位置にこの像が安置されたともいわれているらしい。国府である多賀城やその外港である鹽竈や鹽竈神社の存在、松島湾内の天台寺院瑞巌寺の存在とからめた解明が必要なのかもしれない。しかしこれらの地の東側ということに引っ掛かる。東方薬師如来の東方浄瑠璃世界か、阿閦仏の東方妙喜世界なのだが‥。これは観音像である。
最後に取り上げるのは円空仏。3体の円空仏が展示されているがいづれも若い時の作品である。私は殊に釈迦如来立像(青森県常楽寺、江戸時代17世紀)に惹かれた。若い頃作品は仕上げも丁寧である。横も背面もキチンと彫っている。ただし一本の木から作っているので薄いつくりである。若い頃の作品といっても顔の微笑は円空そのもののほほえみである。
この像を作ってからか、弘前藩の圧力により蝦夷地に渡っている。
この笑いを見ただけでも今回の展示を見に行った甲斐があったという人も出てくるかもしれない。全体に黒ずんだ色合いもまた静かな佇まいを演出しているようで好ましい。
さて次のコーナーは秋田県にある小沼神社にある聖観音菩薩立像(平安時代、10世紀)。小沼神社は菅江真澄が1828年に写生していて、現在もその面影がある場所と解説に記されている。
細身であるものの決してなよなよと弱弱しい感じはしない。朽ちかけているがとても魅力的な肢体である。両手首から先が失われているがどんな手であったのか。復元できるならば嬉しいのだが‥。
突き出た頭頂部には棒状のものがついていたらしく、おそらく地域で信仰されてきた神を招き寄せる依代ではないか、と解説されている。
横浜の弘明寺の十一面観音菩薩立像には鮮明にこの棒状のものがあるとのこと。
そしてこの部分の下には化仏とはちがう顔が彫られている。東北で伝承される「雪ん子」のような小さな目をした顔である。
土着の信仰と、10世紀当時まだまだ浸透しきれなかった仏教との融合、あるいは習合が考えられるという。
岩手県の成島毘沙門堂にある伝吉祥天立像は176センチを超える大きな像で、小沼神社の観音像よりも6センチほど背が高い。しかし実際の人間の体型に近いので親近感がある。
指先が失われているのが残念だが、この手の仕草が魅力である。さらに顔や胸の木目の線が等高線のように像にピッタリの紋様を描いている。特に首下から両の胸乳にかけての木目は見事である。
また何といっても不思議なのが、頭の上の2頭の象の形象。このように象を頭にいただく菩薩などないそうなので実際はどういう類の仏像なのかは不明らしい。背中の造形を見ると背後から手が出ていたことを考えると千手観音の可能性もあるかもしれない。
解説ではこの美しい木目がのこっているのは漆が塗られていた可能性があることが記されている。
次は今回の展示の目玉でもある十二神将立像(丑神、寅神、卯神、酉神)でこれは山形県の本山慈恩寺のもので、鎌倉時代(13世紀)のもの。この寒河江の地には摂関家の荘園があり、慶派の仏師の作と云われる。
薬師如来の眷属である十二神将は仏像としてとても興味深い。力強くそして躍動感あふれる十二の肉体表現は見ていて飽きることがない。一体一体の表情に物語があるようにも見える。
特にこの四体、上半身の躍動感、力強さには圧倒される。多くの十二神将は腰から下に力強さを感じない。この像も同じであるが、それ以上に上半身の躍動感が優っている。
彩色もかなり残っており、それがより生々しい力を感じさせてくれる。
鎌倉時代後半、14世紀に作られたという宮城県給分浜観音堂の十一面観音菩薩立像には圧倒された。高さが約290センチもあり、見上げるような像である。5頭身というスタイリッシュな像ではない。
しかし顔の表情も頭部の化仏も衣もとても新しい。700年以上昔の作品とは思えない状態である。
さらに見上げたときの頭の上にある顔の眼と視線がぶつかる。とても計算し尽くした眼差しである。実は単眼鏡で頭上を除いていたら左右ともに二つ目の顔の柔和な眼が入ってきた時はびっくりした。下から見上げている自分を見透かされたような気がした。いつもどこからみられているような感じを受けた。
1本のカヤの木でできているということで、東北にはない材木である。関東や畿内から材料を運んできたか、制作して宮城県域まで運んだが、いづれにしても都の仏師の存在が必要らしい。
この観音のある給分浜は石巻湾をはさんで、松島・鹽竈・多賀城に相対している位置にある。観音は海を隔てたかなたに浄土を持つといわれていることから、この位置にこの像が安置されたともいわれているらしい。国府である多賀城やその外港である鹽竈や鹽竈神社の存在、松島湾内の天台寺院瑞巌寺の存在とからめた解明が必要なのかもしれない。しかしこれらの地の東側ということに引っ掛かる。東方薬師如来の東方浄瑠璃世界か、阿閦仏の東方妙喜世界なのだが‥。これは観音像である。
最後に取り上げるのは円空仏。3体の円空仏が展示されているがいづれも若い時の作品である。私は殊に釈迦如来立像(青森県常楽寺、江戸時代17世紀)に惹かれた。若い頃作品は仕上げも丁寧である。横も背面もキチンと彫っている。ただし一本の木から作っているので薄いつくりである。若い頃の作品といっても顔の微笑は円空そのもののほほえみである。
この像を作ってからか、弘前藩の圧力により蝦夷地に渡っている。
この笑いを見ただけでも今回の展示を見に行った甲斐があったという人も出てくるかもしれない。全体に黒ずんだ色合いもまた静かな佇まいを演出しているようで好ましい。