Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

東京国立博物館「みちのくの仏像」展(その2)

2015年02月06日 22時55分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 薬師信仰と観音信仰が東北は随分盛んだったようだが、その根拠までは私の知識ではわからない。いつか調べられたらいいのだが。



 さて次のコーナーは秋田県にある小沼神社にある聖観音菩薩立像(平安時代、10世紀)。小沼神社は菅江真澄が1828年に写生していて、現在もその面影がある場所と解説に記されている。
 細身であるものの決してなよなよと弱弱しい感じはしない。朽ちかけているがとても魅力的な肢体である。両手首から先が失われているがどんな手であったのか。復元できるならば嬉しいのだが‥。
 突き出た頭頂部には棒状のものがついていたらしく、おそらく地域で信仰されてきた神を招き寄せる依代ではないか、と解説されている。
 横浜の弘明寺の十一面観音菩薩立像には鮮明にこの棒状のものがあるとのこと。
 そしてこの部分の下には化仏とはちがう顔が彫られている。東北で伝承される「雪ん子」のような小さな目をした顔である。
 土着の信仰と、10世紀当時まだまだ浸透しきれなかった仏教との融合、あるいは習合が考えられるという。



 岩手県の成島毘沙門堂にある伝吉祥天立像は176センチを超える大きな像で、小沼神社の観音像よりも6センチほど背が高い。しかし実際の人間の体型に近いので親近感がある。
指先が失われているのが残念だが、この手の仕草が魅力である。さらに顔や胸の木目の線が等高線のように像にピッタリの紋様を描いている。特に首下から両の胸乳にかけての木目は見事である。
 また何といっても不思議なのが、頭の上の2頭の象の形象。このように象を頭にいただく菩薩などないそうなので実際はどういう類の仏像なのかは不明らしい。背中の造形を見ると背後から手が出ていたことを考えると千手観音の可能性もあるかもしれない。
 解説ではこの美しい木目がのこっているのは漆が塗られていた可能性があることが記されている。



 次は今回の展示の目玉でもある十二神将立像(丑神、寅神、卯神、酉神)でこれは山形県の本山慈恩寺のもので、鎌倉時代(13世紀)のもの。この寒河江の地には摂関家の荘園があり、慶派の仏師の作と云われる。
 薬師如来の眷属である十二神将は仏像としてとても興味深い。力強くそして躍動感あふれる十二の肉体表現は見ていて飽きることがない。一体一体の表情に物語があるようにも見える。
 特にこの四体、上半身の躍動感、力強さには圧倒される。多くの十二神将は腰から下に力強さを感じない。この像も同じであるが、それ以上に上半身の躍動感が優っている。
 彩色もかなり残っており、それがより生々しい力を感じさせてくれる。



 鎌倉時代後半、14世紀に作られたという宮城県給分浜観音堂の十一面観音菩薩立像には圧倒された。高さが約290センチもあり、見上げるような像である。5頭身というスタイリッシュな像ではない。
 しかし顔の表情も頭部の化仏も衣もとても新しい。700年以上昔の作品とは思えない状態である。
 さらに見上げたときの頭の上にある顔の眼と視線がぶつかる。とても計算し尽くした眼差しである。実は単眼鏡で頭上を除いていたら左右ともに二つ目の顔の柔和な眼が入ってきた時はびっくりした。下から見上げている自分を見透かされたような気がした。いつもどこからみられているような感じを受けた。
 1本のカヤの木でできているということで、東北にはない材木である。関東や畿内から材料を運んできたか、制作して宮城県域まで運んだが、いづれにしても都の仏師の存在が必要らしい。
 この観音のある給分浜は石巻湾をはさんで、松島・鹽竈・多賀城に相対している位置にある。観音は海を隔てたかなたに浄土を持つといわれていることから、この位置にこの像が安置されたともいわれているらしい。国府である多賀城やその外港である鹽竈や鹽竈神社の存在、松島湾内の天台寺院瑞巌寺の存在とからめた解明が必要なのかもしれない。しかしこれらの地の東側ということに引っ掛かる。東方薬師如来の東方浄瑠璃世界か、阿閦仏の東方妙喜世界なのだが‥。これは観音像である。

   

 最後に取り上げるのは円空仏。3体の円空仏が展示されているがいづれも若い時の作品である。私は殊に釈迦如来立像(青森県常楽寺、江戸時代17世紀)に惹かれた。若い頃作品は仕上げも丁寧である。横も背面もキチンと彫っている。ただし一本の木から作っているので薄いつくりである。若い頃の作品といっても顔の微笑は円空そのもののほほえみである。
 この像を作ってからか、弘前藩の圧力により蝦夷地に渡っている。
 この笑いを見ただけでも今回の展示を見に行った甲斐があったという人も出てくるかもしれない。全体に黒ずんだ色合いもまた静かな佇まいを演出しているようで好ましい。

   

徳島で震度5強

2015年02月06日 13時49分27秒 | 天気と自然災害
 「みちのくの仏像」展の報告に四苦八苦している間に、徳島南部を中心に震度5強の地震があったらしい。

平成27年2月6日11時45分 気象庁発表
平成27年2月6日10時25分頃の徳島県南部の地震について
6日11時40分現在の概要を以下のとおりお知らせします。
*** 地震の概要 ***
発生日時:2月6日10時25分頃
マグニチュード:5.0(速報値)
場所および深さ:徳島県南部、深さ約10km(速報値)
発震機構等:東西方向に圧力軸を持つ横ずれ断層型(速報)
*** 震度の観測状況 ***
【最大震度5強】徳島県牟岐町で震度5強、徳島県海陽町で震度5弱を観測したほか、近畿地方から中国・四国地方にかけて震度4から1を観測しました。
*** 余震活動の状況 ***
 6日11時10分現在、震度1以上を観測した余震は発生していません。
*** 防災上の留意事項 ***
 この地震による津波の心配はありません。揺れの強かった地域では、落石や崖崩れなどの危険性が高まっているおそれがありますので、今後の余震活動や降雨の状況に十分注意してください。
*** 緊急地震速報の発表 ***
 この地震に対し、地震検知から6.8秒後の10時25分21.9秒に緊急地震速報(警報)を発表しました。

 幸い人的な被害などは報告されていないようだが、ここの地点での地震というのはあまり聞いたことがないので驚いた。海岸近くの深さ10キロと浅い地震である。動いた断層が地表に露出しているのではないだろうか。いろいろ研究材料にはなりそうな気もする。

東京国立博物館「みちのくの仏像」展(その1)

2015年02月06日 13時22分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
      

 雪催いの中わざわざ東京国立博物館まで出かけたのだが、出かけた甲斐があったようだ。混んではいなかったが、入れ代わり立ち代わり会場に入って来て常時20人ほどが会場に居たと思う。
 仏像を信仰の対象のように手を合わせて見る人、仏像の視線に合わせて座り込んで見上げる人、あくまでも美術品として鑑賞することに徹しているらしい人、歴史的な観点から図録の解説を見ながら見ている人、写真撮影は禁止されているが枠を手で作って撮影したい様子がありありの人など動機は様々であるがどんな鑑賞の仕方をするにしろやはり仏像は静かな雰囲気で落ち着いて鑑賞したいものである。
 仏像の背後にある人々の意識などに想像を飛翔させるのも自由である。
 出展されている仏像はどれも惹かれた。顔も姿態も、朽ちかけた材質やはがれて痕跡だけの彩色も、見ていて飽きることがない。また作られた時代背景から大胆な想像の飛躍を楽しむのもいいかもしれない。
 奈良時代からの東北経営(「蝦夷」征討)には、朝廷の進める仏教による統治が欠かせないものであったが、土着信仰との折り合いなどさまざまな経緯を経たことも仏像の表情や装飾などからも推察される。
 世界宗教というものの性格は土着の信仰への残虐な抑圧とともにあることは、キリスト教の拡大の歴史を見ればすぐに理解できるが、仏教というものも決して無縁ではなかったことがわかる。
 話は飛躍するが、イスラム世界でタリバン勢力が仏教の石像を破壊して日本でも批判の声が大きくなった。それはいいのだが、日本の人々は負の歴史はすぐに忘却することに長けている。つい150年前日本が近代国家として胎動した明治時代初頭には廃仏毀釈で容赦なく仏像や仏教関係の遺産が野蛮にも破壊されたこと、東北や北海道の土着信仰を奈良時代以降容赦なく破壊してきたこと、江戸時代初期のキリスト教への弾圧など、私たちも決して彼らの蛮行とは無縁ではなかったことは踏まえていなければならないと思う。そうでなければいったん立場がひっくり返ると、いつの間にか今度はイスラム教そのものを否定する立場にすり替わってしまう危険が大いにあるということだけは記しておきたい。

 話を戻して‥。



 会場に入ってすぐに展示されているのが、岩手県天台寺の聖観音菩薩立像(平安時代、11世紀)。衣紋全てと身体では胸だけに鉈目が入っている。鉈彫と呼ばれる技法という。衣の鉈目は基本は水平だが折り目では一部が斜線であり、衣の写実性にも心配りをしている。
 畿内では木造の仏像には漆や金箔などの装飾が施されるが東北では木地のままのものが多いと聞いている。このような鉈目による装飾はいくつも例があるようだ。顔も姿態も整っているが、この鉈目の効果に最初から圧倒された。像の立体感だけでなく、柔らかさがある。完成された像という感じがした。



 次は朽ちかけた3体の菩薩像。山形県の吉祥院伝来。両肩に手が付けられていたような跡が残っており明らかに千手観音像であったと思われるが表情も姿態も異なっている。いづれも平安時代だが10~12世紀のものと少しずつ時代がずれている。
 頭部が身体に比して大きいもの、バランスの良いもの、小さすぎるものとある。共通して目についたのが衣の柔らかさ。
 常に不安定で動乱の時代を繰り返して来た10~12世紀にしては温和な表情だと思える。

 そして今回の展示の見どころでもある薬師像3体が並ぶコーナーがある。



 まずは宮城連の双林寺の薬師如来坐像と持国天・増長天立像。これは平安時代、9世紀のもの。解説ではこの双林寺は奈良時代初期に地元の神が祀られていた地に建てられたものだという。3.11の地震で損傷に2年かけて復元したという。
 ポストカードをスキャンした画像では持国天・増長天の表情がわかりにくいが、この表情が実に迫力がある。下半身も腰がちゃんと低く構えられている。足元の邪鬼はちょっとユーモラスである。両天ともに腕が失われているが、飛翔しているような様子にも見えないこともない。
 対照的に薬師如来は顔が丸く柔和である。頭部から胸部を経て腹部までは厚みがあり、肩もいかつい。体がいかついにもかかわらず正面から見ると丸い頭部と、流麗な衣の襞が全体を柔和に見せていると思った。また足と腕は体躯に比べ細いが、正面から見る分には違和感はない。



 次の薬師像は福島県勝常寺の薬師如来坐像と両脇侍(日光・月光菩薩)立像。いづれも平安時代9世紀の作。
 まずはどっしりとした薬師如来の体躯に驚いた。横から見るとその厚味は先の双林寺の薬師如来像よりもさらに暑い。そして衣の襞も彫が深い。またこれまでの像は木肌の木地を生かしているがこれは金箔を貼り、そして彩色を施している。都の風が反映しているという。確かに雰囲気がまるで違う。
 作品には陸奥の布教で有名な徳一の関与が窺えるとのこと。



 3体目は岩手県黒石寺の薬師如来坐像(平安時代、862年)と日光菩薩立像・月光菩薩立像(共に平安時代、12世紀)。
 この薬師如来坐像は体内に貞観4年の銘があり、7年後には貞観地震があったことになる。この像は869年の貞観大地震と2011年の東日本大震災のふたつの大規模地震を体験した稀有な仏像である。
 しかし坂上田村麻呂の東北征討から60年後のこの薬師如来蔵は決して温和な表情ではない。目は吊り上がり、飛び出た唇からはきっと威嚇するような大音声が聞こえてきそうな顔である。
 衣も柔らかみのある紋様ではない。深い切れ込みのような襞からは、敵対者を威圧する剛直な武人の面影すら窺える。どのような意図でこの像が作られたかはわからないだろうが、かなり異質な仏像であると推察される。
 時代はまだまだ不安定な要因をはらんでいた当時の東北の地の情勢が窺える。
 両脇時の日光・月光は顔がだいぶ朽ちているが薬師とは対照的に温和な表情であったことがわかる。腰のひねりなどなよなよとした感じすらある。

かなり冷えてきた

2015年02月06日 01時02分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜の空は雲がすっかり無くなり、16日の月である居待月が今天頂付近にありとても美しい。本日の木星は月の西側にある。
旧暦では本日はまだ12月18日で新年になっていない。今の暦で2月19日が新年となるそうだ。

 東京国立博物館では一年間有効のパスポート4100円を購入。「みちのくの仏像」展の記事掲載のため、図録をスキャナーで取り込んでいるうちに、日付が変わってしまった。まだあと2枚。これは朝になってからにすることにした。
 ミュージアムショップでは図録が1600円とポストカード3枚を計2000円で購入した。さらに2012年に発行された別冊太陽の「みちのくの仏像」も販売していたが、こちらは購入しなかった。購入しておけばよかったと反省中。

 もう雪の心配はないと思われる。明日は気温が10℃を超すらしい。ただしまた9日には南岸低気圧が通過するらしい。雪となるか否か、まだ判然としていない。