Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は多磨霊園へ

2016年04月02日 23時14分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は武蔵小金井市内にある多磨霊園に墓参りを兼ねて花見。総勢8名となった。フルメンバーである。墓参といってもお墓とその周りを掃除をしてお花を供える程度である。
 我が家の墓にはキリスト者もいるし、曹洞宗、浄土宗、真宗もいる。神道の翁命もいる。しかし不思議と日蓮系の宗派はいない。これに私の骨がおさまればまったくの無宗教・不信心者の名が刻まれることになる。妻や娘はどうするつもりなのかは私の関与するところではないはずだ。
 多くの墓には、十字架の建つものもあり、南無阿弥陀仏と墓石に刻まれたものもあり、南無妙法蓮華経とかかれたものもある。家系の中でその宗教に属さない人は許さないという強い主張の墓を見ると、生前の生き様とはまったく反対に、死後はこんなに排他的な世界を構築している日本の宗教観念の不思議が立ちのぼってくる。

   

 本日は夕刻に横浜駅周辺の桜を見て歩いた。どんよりとした曇り空の下で、くすんだ桜の木の下を巡り歩いた。

 そうなのだ、50年前には次のような詩が頭の中にどんと居座っていたこともあった。涙というものは私の身体からも、観念からも、すでに失せてしまっている。涙という概念そのものがないことに気がついた。


  桜
         萩原朔太郎

 桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
 何をして遊ぶならむ。
 われも桜の木の下に立ちてみたれども
 わがこころはつめたくして
 花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
 いとはしや
 いま春の日のまひるどき
 あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。


春の古本まつり

2016年04月02日 21時12分33秒 | 山行・旅行・散策
 本日は気温も低いとのことで、桜を見に行きたい妻も東京までは行く気が湧かないとのことで、私一人で神田神保町へ「春の古本まつり」をのぞいてきた。妻は一日家に引きこもり課と思っていたら、夕方から横浜駅西口界隈の新田間川や幸川沿いの桜を楽しんできたらしい。
 神田の古本市は昨年の10月末に岩波ホールで「光のノスタルジア」と「真珠のボタン」を見た帰りに覗いたが、あまりじっくりと探すゆとりはなかった。本日は13時30分ころから
16時過ぎまでじっくりと欲しい本を探した。本といっても単行本ではなくちくま文庫や河出文庫などを探した。
 結局探したものの内約半数をゲットできた。予算3000円のところを2950円で済ませた。
 「西洋中世の男と女」(阿部謹也、ちくま学芸文庫) 1296円→ 800円
 「奇想の図譜」(辻惟雄、ちくま学芸文庫)     1512円→1000円
 「セザンヌ物語」(吉田秀和、ちくま文庫)     1620円→ 600円
 「幻想の肖像」(澁澤龍彦、河出文庫)        594円→ 350円
 「萩原朔太郎詩集」(岩波文庫)           972円→ 200円
  合計                     5994円→2950円
 往復の電車賃を考慮すると2100円ほど安く購入したということで満足しておこう。

 横浜駅の傍でまた合わせて、実に10年ぶり位にお好み焼きを二人で食べて帰ってきた。

「異様を異様と感じなくなる時代の異様」(高村薫)

2016年04月02日 09時27分34秒 | 読書
 昨日届いた岩波書店の「図書4月号」。いつものとおり、表紙の写真とその解説(伊知地国夫)、「詩のなぐさめ」(池澤夏樹)、「美術館散歩」(三浦佳世)、「作家的覚書」(高村薫)にまず眼を通した。
 三浦佳世氏の「美術館散歩」は4回目で「浮世絵の視線」。広重・春信の浮世絵に登場する人物の視線の解析、そして西洋の絵画作品に登場する人物の視線との比較・解析はなかなか面白い。澁澤龍彦の「幻想の肖像」(河出文庫)の存在を教えてもらった。機会があれば読んでみたい。
 池澤夏樹の「詩のなぐさめ」は49回目である。この連載は読んだり読まなかったりである。今月は眼は通したが、まだよく理解できていないところがある。
 ひうひとつ「「こころ」論-語られざる「遺言」」(若松英輔)の第1回が始まった。私に何かを示唆してくれるものか、第1回を読む限りまだ何とも言えない。
 雑誌の連載というのは苦手である。前回までの論を思い出すのが面倒である。できればまとまってから読みたいのだが、単行本になると高価になる。単行本にならないものもある。パラパラとめくりながらいつも読んですぐに忘れてしまう。高村薫と三浦佳世の連載だけは続けて読んでいる。もっとも毎号、論としての完結性が強いので読みつづけることが出来ている。



 その高村薫氏の文章、大体が政治批判である。今回は文章の最後を引用しておこう。「多数の負傷者に即応するだけの外科処置の能力を持たない自衛隊が、戦場へ出てゆくことの異様。そもそも敵地攻撃能力など端から持っていないのに、その可能性が大声で語られる異様。輸送艦が三隻しかないのに、集団的自衛権に地理的制約はないとされる異様。平和な朝のいつもの新聞のすみずみに、異様を異様と感じなくなった時代の異様が覗いている。」

 忘れないように記しておきたい。3月下旬から沖縄戦が始まり、沖縄本島への米軍の上陸が開始されたのが71年前の1945年4月1日である。