明日は武蔵小金井市内にある多磨霊園に墓参りを兼ねて花見。総勢8名となった。フルメンバーである。墓参といってもお墓とその周りを掃除をしてお花を供える程度である。
我が家の墓にはキリスト者もいるし、曹洞宗、浄土宗、真宗もいる。神道の翁命もいる。しかし不思議と日蓮系の宗派はいない。これに私の骨がおさまればまったくの無宗教・不信心者の名が刻まれることになる。妻や娘はどうするつもりなのかは私の関与するところではないはずだ。
多くの墓には、十字架の建つものもあり、南無阿弥陀仏と墓石に刻まれたものもあり、南無妙法蓮華経とかかれたものもある。家系の中でその宗教に属さない人は許さないという強い主張の墓を見ると、生前の生き様とはまったく反対に、死後はこんなに排他的な世界を構築している日本の宗教観念の不思議が立ちのぼってくる。
本日は夕刻に横浜駅周辺の桜を見て歩いた。どんよりとした曇り空の下で、くすんだ桜の木の下を巡り歩いた。
そうなのだ、50年前には次のような詩が頭の中にどんと居座っていたこともあった。涙というものは私の身体からも、観念からも、すでに失せてしまっている。涙という概念そのものがないことに気がついた。
桜
萩原朔太郎
桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
何をして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとはしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。
我が家の墓にはキリスト者もいるし、曹洞宗、浄土宗、真宗もいる。神道の翁命もいる。しかし不思議と日蓮系の宗派はいない。これに私の骨がおさまればまったくの無宗教・不信心者の名が刻まれることになる。妻や娘はどうするつもりなのかは私の関与するところではないはずだ。
多くの墓には、十字架の建つものもあり、南無阿弥陀仏と墓石に刻まれたものもあり、南無妙法蓮華経とかかれたものもある。家系の中でその宗教に属さない人は許さないという強い主張の墓を見ると、生前の生き様とはまったく反対に、死後はこんなに排他的な世界を構築している日本の宗教観念の不思議が立ちのぼってくる。
本日は夕刻に横浜駅周辺の桜を見て歩いた。どんよりとした曇り空の下で、くすんだ桜の木の下を巡り歩いた。
そうなのだ、50年前には次のような詩が頭の中にどんと居座っていたこともあった。涙というものは私の身体からも、観念からも、すでに失せてしまっている。涙という概念そのものがないことに気がついた。
桜
萩原朔太郎
桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
何をして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとはしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。