Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ブラームス「チェロソナタ第1番」

2016年04月10日 22時45分53秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 ヴァイオリンソナタの次にはチェロソナタが聴きたくなった。いつものとおりチェロは堤剛、ピアノがウォルフガング・サヴァリッシュのCDをひっぱり出してきた。
 チェロソナタ第1番(作品38)はブラームスが29歳から32歳頃にかけて、初期の頃に作った曲である。第2番(作品99)が交響曲第4番の直後の53歳という円熟期の作品であるので、二つのチェロソナタを聴き比べるのは、ブラームスの曲の変遷を知る上でも興味がある。

 クラシック音楽というのは、演奏家の作品理解、作曲家理解というフィルターを通して、作品に接するというものである。得てしてそれは作品や作曲家の意図とは違うものがあるかもしれない。私は堤剛という優れた演奏家をとおしたブラームスの理解に、たとえそれが本来的な作品理解・作曲家理解とかけ離れていたとしても、それで満足と思える演奏家だと思える。ピアノのサヴァリッシュについてもそのようなことを思わせてくれる指揮者、ピアノ演奏家である。
 このCDを聴くたびにそんなことをいつも思う演奏である。



 第1番はなんといっても第1楽章が気に入っている。チェロの低音がことのほか美しく豊かな音に感じられる作品であり、演奏である。
 冒頭からチェロの低音から高音まで並んだ音程でチェロの朗々とした音色を存分に聴かせてくれる。一気にチェロという楽器の魅力の世界に引き込まれる。この初めの20小節が聴きたくてこの曲を聴くといってもいい。
 時には第2楽章、第3楽章は聴かずにこの第1楽章だけを数回聴いて終りにしてしまうこともある。

      

「小人閑居して不善を為す」

2016年04月10日 18時24分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昔、中学生か高校生の頃、ある人が「小人閑居して不善をなす」ということを言って説教をしていた。学校の先生ではなかったが、学校関係者のひとりであった。その時はそのまま気にも留めず聞き流していたが、このことわざの存在をそのとき以来記憶している。
 一般的には「つまらない人間は暇をもとあますとろくなことをしない」という意味に使われる、という。
 本日は何も為さなかったから、「不善を為していない」とぼんやり考えていたけれど、「何も為さないことが不善」といわれてしまえば、もう私の立場は無い。どちらにしろ「不善」と指摘されるのもまたつらいものがある。こんな妄想をしていることが「不善」そのものであろうか。
 勤めはじめてすぐの頃、交渉相手から面と向かってこのことわざを言われて、さすがにムッとした。「あぁそうですか」といって背を向けて帰ってきてしまった。後で上司にたれ込みがあるかとドキドキしたが、そんなことはなくてホッとしたことがある。
 人を見下して、「正論」に酔い痴れて、人に説教をしたがる人が吐く言葉として、私の頭の中にこびりついてしまった。私にはとても嫌なことわざである。
 一方で「無為自然」という言葉もある。「作為的に人の手を加えず、あるがままにまかせる」とおおよその意味である。老子の思想から言えば「作為をしない」ということで「何もしない」ということではないが、こちらの方がずっといいことわざである。

 本日は朝のうちに団地の集会所で会議、11時から30分ほどパソコンの前に座り、そして午後になって歩いて3分の商店に一度買い物に行ったが、買い物以外はのほほんと時間が過ぎて行くのを眺めているような過ごし方をした。
 11時からパソコンの前に座ったのは、遅ればせながらボッティチェリ展の感想を記した。私なりの活動といえばその程度。しかもボッティチェリ展はもう閉幕してしまっている。
 ほとんど「何も為さなかった」日である。はたして「不善を為した」のか。
 そう、読書もほとんどしていない。何もしない日はかえって落ち着かない。何かを忘れているような気分になる。ぎっくり腰の回復にはいいことだったと思うが‥。

 腰の痛み、ダルさは本日の朝はさらに昨日の朝よりも軽減されていた。本日の昼からは、傷み止めと筋肉の強張りを軽減するという薬の服用をやめてみた。それでも特に痛みやダルさが昂じたとは思えない。貼る湿布も本日は止めてみた。
 ただし明日以降も、病院で低周波の電気治療には通うつもりである。

 ぎっくり腰については多くの方からお見舞いと心配の声をいただき感謝しております。ありがとうございました。


ボッティチェリ展

2016年04月10日 13時47分03秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 ボッティチェリというと私の乏しい知識では3つの作品しかなかった。「ラーマ家の東方三博士の礼拝」(1475-76)、「春(プリマヴェーラ)」(1477)、「ヴィーナスの誕生」(1483)だけであった。いづれもフィレンツェのウフィツィ美術館の収蔵品として展示されている。実際に訪れて見る機会を得ることが出来た。
 私は「東方三博士」、「春」は気に入っている。しかし「ヴィーナスの誕生」のヴィーナスの造形と顔の表情が人間離れしていてこれまで惹かれることは無かった。



 今回初めて「バラ園の聖母」(1468-69)、「聖母子(書物の聖母)」(1482-83)、「聖母子、洗礼者聖ヨハネ、大天使ミカエルと大天使ガブリエル」(1485)、「聖母子と4人の天使(バラの聖母)」(1490年代)など、工房の作といわれるものも含めていくつかの作品を見る機会を得た。
 いづれも私は赤子であるキリストの造形、顔の表情におおきな違和感を感じた。あまりに不自然な体の在りよう(体躯の捻り方、体躯の各部のアンバランス)、赤子とは到底思えない大人びた表情など数え上げたらきりがない。
 ただしマリアを含めて大人や天使はキチンと描かれている。この落差がまたすごい。
 しかし今回の展示作品、「聖母子(書物の聖母)」もキリストの造形と表情はとても現実味がないが、マリアの造形・表情、衣服、室内調度、窓の外の空などとても手が込んでいて、丁寧に描いていると思うとともに配色の妙も感じた。
 またマリアの視線が書物には注がれておらず、伏目で瞑想しているようである。マリアと赤子のキリストと視線は合っておらず、両者の母子としての信頼関係を私たち非キリスト者には類推することはできない。これは他の聖母子像とあまり変わらないが、それでも何らかの両者のコミュニケーションを想定したくなる力がある。それがなんだろうとずっと考えていたが、やはり私の能力・知識では、結局わからなかった。ただ、画面の筆致の丁寧さだけが心に残っている。
 解説では「極めて重要な注文に寄る制作だったことが推測される」と記されている。



 画面の美しさでは、「美しきシモネッタの肖像」(1480-85)に惹かれた。実際に接することのあった女性であったそうだが、人物の造形からは画面が小さくとても窮屈に感じる。視線の先に対話する人が描かれていたものを切り取ったのではないか、と感じる。画面が小さいのか、描かれている人物が大きすぎるのか、どちらであろうか。



 それは「女性の肖像(美しきシモネッタ)」にさらに顕著にみられる現象である。同一人物とは思えないものの同じく「シモネッタ」という表現が使われている。それとは別に左を向いている視線の先があまりに狭い。そして頭の後ろが少し広めである。私はこの作品も視線の先に別人がいるのか、あるいはさらに多きな作品の一部を切り取ったものかと考えてしまう。解説にいづれの作品についても私の疑問には触れてはいないので、鑑賞の本質からはずれた、私のつまらないこだわりに過ぎないのかもしれない。
 しかしこの2点の女性像にはとても惹かれた。宗教性や親和性から離れたボッティチェリの作品に私は惹かれるようである。