Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ゴヤ スペインの光と影」(堀田善衛)

2019年07月14日 23時34分14秒 | 読書

   

 先ほどから読み始めたのは「ゴヤ1 スペインの光と影」(堀田善衛、集英社文庫)。かなりつい上に4冊で完結する評伝。
 先ほどまで読むのに厳しかった「マネの絵画」よりは理解できる範囲は広いと思われる。またそれなりに楽しみながら読めると期待している。

 


「マネの絵画」(フーコー) 読了

2019年07月14日 21時49分21秒 | 読書

 

 ようやく「マネの絵画」(ミシェル・フーコー、訳:阿部崇、ちくま学芸文庫)を読み終わった。
 フーコーの「マネの絵画」という講演は、話し言葉でもあり、私でもそれなりにわかりやすく読めた、と思う。実際は読みこなせていないのかもしれないが、取りあえずは理解できたと思っている。
 フーコーという哲学者の著作は初めて目にした。西洋の哲学書にはなかなか縁遠くて、学生時代に初期のマルクスは何とかかなり目を通した。またヘーゲルの「歴史哲学」を少しばかり齧った程度でしかない。
 しかしこの書にはこのフーコーの講演が掘り起こされ、刊行されることで開かれたシンポジウムの8氏の発言をまとめた8つの論考がおさめられている。
 私にはいづれの論考も、それぞれが自分の言葉で語っていないことに不満を持つと同時に、フーコーや他の哲学者の言葉の片々を集めたような論考にはどうしても違和感を強く持った。フーコーや他の哲学者の言葉や「〇〇一派のように」などとまとめられても、まるで何のことやらさっぱりわからない。分かる方が無理というもの。
 読み通すのが苦痛であった。分からない文章というのは、文章の流れで次に出てくるかと想定した言葉と違う言葉が繰り返し登場したり、あるいは他者の言葉を短く唐突に引用してきて、それが理解されているという前提に立って論が一方的に進められるときである。
 学術的であっても狭い範囲でしか通用しそうもない論考にずいぶん長く付き合ってしまった、という徒労感とともに、最後のページを綴じた。


自然災害が人災に転化する「政治の貧困」

2019年07月14日 20時12分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 予定通り午後遅く近くのスーパーへ買い物に出かけた以外には外に出ることもなく、何となく時間が過ぎた。特に何をするでもなく、私は読書タイム、妻は体調不良で布団の中、食欲もあまりない。過労だとは思うが、明日一日様子を見て、火曜日以降の対応を考えるしかない。
 読書はしていたが、読んでいる本が面白味がない。フーコーのマネについての講演は大変興味深く、勉強にもなったが、それを受けたシンポジウムの内容は私の関心からは外れている。次の本に早く移行したいものである。

 現在横浜港では花火の打ち上げか行われているが、外に出て見学する気にもならず、私もボーっとしている。活動のエネルギーが湧いてこない。

 横浜市域に出ていた大雨注意報も解除になっているが、未だ霧雨のように降っている。テレビのニュースでは来週もずっと曇り空、雨が続くらしい。日照不足・低温の影響がじわじわと出て着そうな気配。今の政治の貧困では自然災害が人災としてさらに増幅すること間違いがない。


「雨籠り」の休養日

2019年07月14日 12時14分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

         

 本日も朝から弱い雨が続いている。九州ではまた豪雨との報道。ことしの梅雨は嫌な雨が続く。

 嫌な雨であるが、今横浜で降っているような弱い雨は、気分によっては心を落ち着かせるものである。昨日入ったレストランは木造の日本建築風の建物であった。植栽や設えなどではこのような湿気の覆い梅雨の時期にも、落ちついた雰囲気を醸し出すものであると思える。

 妻は私の親の入院で草臥れたようで、朝からダウン。寝入っている。本日は特に予定はないので、このまま休養の一日。「雨籠り」ということばは聞いたことはないが、本日は雨を理由に私も家に引き籠って、休養日。