Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

藻刈舟

2019年07月16日 21時22分50秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★刈る人も無き藻小舟も朽ちて死す    庄司たけし
★船溜まり藻刈りの舟も来て憩ふ     能村登四郎

 最近はアウトドアもしなくなっており、湖や沼で藻刈船に出会うことはない。木造の川船を見ることすらなくなった。登山などで山に入っていくと、「こんなところに?」というような細い川や沼にも川舟を見かけた。棹とともに夏の日ざしに白く乾き切って打ち捨てられているものを多く目にした。
 1980年代以降川舟はどんどん姿を消していったようだ。そして渡しも、藻刈りも、川や湖などの舟運も廃れていく時期に私はその残骸を見てきたようだ。今ではその残骸すら見ることはなくなったといえる。
 多く見かけたのはたまたま私がよく訪れることの多かった東北の山を訪れる途中で出会った気がする。


「読む」ということ

2019年07月16日 12時02分35秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 これまで読んだことの無かった著者や、久しぶりの著者の場合、読み始めると文章の言い回しや論理や結論に、違和感が生じることがある。その障壁の高さや違和感で読むのをやめてしまったりする場合がある。それでずいぶん読まず嫌い、になってもったいないことをしている作品、著者というものは恥ずかしながらたくさんいる。

 しかしその障壁をのり越えてみたい、あるいは違和感はあるものの次の展開を見てみたい、と強く思う場合も多々ある。思想の重み、体験に基づく思考の迫力、文章の力というのが、そういうチャレンジをさせる。そういう気にさせる著者、著作、作品というのは信じられるような気がする。

 もうひとつ踏み込むと、優れていると思われる作品と云うのは、自分なりに読んで理解した以上の「何か」もあるはずなのである。その「何か」を予見することで、読んでみたいという気にさせるのだと思う。
 読んだ人間にはその場では読み取れない「何か」が潜んでいる。その読み取れなかったものが、時間が経ってあるときふと頭の中で醸し出されるように思い出されることもある。次の著作を読んでいるときに突然に回路がつながるようにひらめいて納得するときもある。

 ひとりの読者か読み取れるのは、知識の量ではない。新しい思考回路であったり、思惟の幅であると思う。それは読み取ろうとする人の意欲と思考の幅と、体験の深さに比例する。

 わたしにもそのような文章の力とそれを支える思考の力、体験を組み込む力、思想の深み、情念の強さが欲しいと思うが、如何せんそれらがあまりに乏しい。


スペインの基礎知識と早速の感想

2019年07月16日 10時09分00秒 | 読書

  読み始めた「ゴヤ」(堀田善衛)は、スペインの地理的景観、歴史的背景から始まる。知っているようで知らないスペインという風土、地理。ということで、高校生用の世界地図、歴史地図をコピーして文庫本サイズの大きさに裁断して、栞変わりに使うことにした。

 見方を変えれば、作者はずいぶんと基本的な調査をしながらこの本を構想し、着手したことがよくわかる。スペインやイスラム教、キリスト教‥ということがこれがすべて正しいということではないはずと思うが、堀田善衛という著者のアプローチをまずはじっくりと拝見。

 まずは冒頭からスピノザの文章が引用される。実はこの部分が最初の私には驚きの叙述であった。

「われわれの側に、もう一つの厄介な先入見がある。それは“情熱的”という、なんとも定義付けの仕様のない、漠然たる情念である。いったい“情熱的”とはどういうことなのであろうか。情熱とは、第一義的には、“受難、苦難”を意味し、これが複数になり大文字になれば、キリストの受難を意味する。受難、苦難から発して激情、激怒、熱情とまで来れば、それらはすべて受け身な、暗い感情であることがおのずと明らかになるのではなかろうか。“明るく情熱的”ということは、ことば自体として矛盾しているであろう。哲学者スピノザならは言うであろう‥‥‥。『受け身の感情(情熱)は、われわれがそれについて明確な観念を形成するや否や、たちまち受け身であることを解消する。受け身な感情は、混乱せる観念である。」と。情熱的な人間とは、これはあまり名誉ある呼ばれ方ではないであろう。受け身な、暗い感情の持ち主とは、誇り高いスペイン人たにとって耐えがたい称呼であろう。」

 私は最初の3頁の末尾から4頁にかけてのこの部分で立ちどまってしまった。私の頭の中では「情熱的」とは、主体的で能動的で、前向きな方向と理解していた。あることに邁進しようとする大きなエネルギーを持つ主体と思っていた。
 確かに情熱的であるということが、受難や苦難という強制敵に与えられた刺激に対する反応を差し、それに反発するように発生する感情、怒り、熱情ならばそれは受け身であるかもしれない。しかし自己の内発的な思いを達成しようとする感情が切り捨てられていないか。と考えてしまう。
 この指摘、確かに指摘されれば納得のいくこともあるが、同時に保留も必要だということで次に進むことにした。ある意味新鮮な刺激を受けた。

 そしてこんどははじめの10頁目で惹かれた個所があった。

「コルドバの回教寺院転用のカトリック大聖堂を訪れるごとに、大袈裟なこと言うといわれることを覚悟の上で敢えていうとすれば‥‥この天井が低く薄暗い柱の森は、キリスト今日のそれのように側壁にはほとんど何の装飾もなく、ひたすら水平にメッカの方向をめざすものであり、その後に作り込まれた(キリスト)教会堂は、これはまた垂直に、天を仰ぐ形になっているからである。メッカをのぞむ水平方向の信仰と天を仰ぐ垂直信仰とが、ここだけで共存していたのである。」

 テレビで幾度かコルドバの回教寺院からカトリック大聖堂に変わった建物が写されたのを見たことがあると記憶しているが、このような垂直と水平方向の在り様については気がつかなかった。また少なくともキリスト教の垂直方向の信仰、という指摘には頷くものがある。イスラム教については知識がないのでわからないが、確かにメッカの方向への礼拝など思い当たるものがある。
 このような把握、理解に惹かれた。また記憶しておきたいと思った。