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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

23時前後の住宅地

2019年07月24日 23時23分19秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 30分ほどの夜のウォーキング。いつもより30分ほど遅く出かけたためか、車にはほとんどすれ違わなかった。しかしあまり遅い時間は避けたいもの。

 団地の外に出ると23時近くになっても、犬の散歩をしているどうみても70代を超えていると思われる高齢者、ジョギングをしている20代の学生、酔ってふらつきながら歩いている若い勤め人、前など見もしないスマホ歩きの20代・30代、いづれも男も女も一人が多い。私のような60代・70代のウォーキング・ジョギングもときどき見かける。

 犬の散歩を23時前後に日課にしている70代半ばと思われる女性はすれ違うことが多いので、とても気になる。小さな犬ではあるが、犬を連れているのか、犬に連れられているのか、判らないところもある。
 そして同年代の人間とすれ違うと何となくホッとする。これもまた不思議だ。他人のことに 無関心のようなスマホ歩きの若い人には違和感を強く感じる。たいていはゲームと思われる。斜行・蛇行しており危険極まりなく、ひったくりをしてくださいと宣言しているような熱中の仕方に、違和感と断絶を感じている。
 コンビニの駐車場で話に夢中の10代のグループはさすがにこの時間にはいない。

 やはり団地の外の公園では、80代の男女がベンチで毎日話し込んでいる。どういう関係かはわからないが、ともに声が大きいので、公園に面した住宅の住人には迷惑と思われる。それも家族の悪口雑言である。ウォーキングをしていても私の耳にも入ってしまう。家族内でなかなかこじれているようだ。こういうのはあまり耳に入ってきてほしくないのだが、気になるものである。
 しかしこのいつもの二人はこの時間の会話がなければ、行き場所もないのだろう。彼らの行き場所、落ち着き場所とはどんなところなのだろうか。他人事ながらいろいろと気になるものである。

 夜のウォーキングでは、さまざまな人生が垣間見えるが、あまりいい印象ではない。多分私もそのように見られているのであろう。お互いさまではある。


「大暑」の句 2

2019年07月24日 21時29分51秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 よく晴れた一日となった。最高気温も316℃にもあがり、梅雨明け宣言を待つばかりの気温となっている。

★白きもの真白に洗ふ大暑かな      福田雅子
★眼帯が顔に貼りつく大暑かな      谷古宇功一

 第1句、洗濯洗剤のコマーシャルとは違うが、白いものはより白く洗った方が気持ちがいいという。まして太陽が照りつける夏場には。白い布地は太陽光線をより気持ちよく反射し、そして清潔感がある。
 題2句、眼帯は汗をかくと途端にわずらわしい。そんな厭わしい気分が滲み出ている。

 気分が滲み出ているからこの2句が抜きんでいるかというといろいろと意見はあると思われる。ともに下の句が「転」にしてはつき過ぎている気がする。いろいろといじってみたくなる句であることは確かだ。いじってみて自分なりにうまくできるだろうか。残念ながらそこまでは私も修練していない。


「大暑」の句

2019年07月24日 10時45分49秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★兎も片耳垂るる大暑かな        芥川龍之介
★念力のゆるめば死ぬる大暑かな     村上鬼城

 二十人節気の「大暑」。大暑を季語とした句、歳時記には好きな句がいくつか並んでいる。その中で本日は2句。

 第1句、この句は芥川の「澄江堂句集」に収められている。1926(T15)年の句。わざわざ「破調」と詞書を添えている。山本健吉は「はからずできた字足らずの句にかえって興がっているのであろう。「片耳垂るる」だから字足らずがおもしろいのである」と解説してあるが、私は納得できない。
 「「片耳垂るる」だから」云々は理由にならない。記憶にないのが残念だが、初めは「小兎」としたらしいが、友人から「小」は取るべきだ、と主張されしぶしぶ従った、という説を見たことがある。これもまた芥川の主体を抜きにした論でピンとこないが、芥川がどういうつもりで、4音にしたか聞いてみたい。
 確かに小兎よりも、子兎よりも、イメージとしては「兎」一般の方がいい。しかし私にはこの4音は逆にピンとこない。4音でもいい句はたくさんある。
 どう変えたらいいか、私にはわからないが。ただし「兎」「片耳垂るる」「大暑」、この連想は理屈抜きに好きである。

 第2句、暑さがやってくるたびに思い出すのがこの句である。気力を振り絞らないと夏は越せなくなった。特に50代の後半からは切実である。気力の減少とともに夏が憂鬱になってきている。好きだった夏が気力の衰えに反比例して嫌いになっていく度合いが強まる。歯を食いしばって暑さに身構えている。
 もうひとつの情景も思い浮かべることができる。縁台か縁側で浴衣姿の年寄りが団扇で自分を仰ぎながら「こんなに暑いと命が縮まる」と大袈裟に声を出している情景だ。多くの人が経験していると思うが、こういう時には「死ぬ」というのは実は軽い表現なのである。
 この句の場合も気力の衰えを嘆く場合でも、暑さでへとへとになっている場合にしても、言っている本人は「軽い気持ち」で「死にそうだ」といっている場合の方が多い。荘一帯ではこの句の「死ぬる」は受けとっていいのではないか。いかにも俳句らしい軽妙な句として理解した方がいいと思われる。

 今のところは雲が空を覆っているが、昨日に続いて晴れて太陽が顔を出すらしい。30℃を超えそうである。そろそろ梅雨明けとなるのだろうか。梅雨明けを期待するのだが、暑さを思うと、先ほども書いたとおり、あまり嬉しくなくなった。