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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

初蝉を聞く

2019年07月21日 23時19分59秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 朝起きたときに蝉が鳴いていた。ミンミンゼミであった。今年初めて耳にした。昼過ぎに公園で一休みしているときにも蝉が鳴いていた。こちらは桜の木に止まっていたしニイニイゼミだと思われる。
 サルスベリが咲き、蝉が鳴きはじめ、ようやく7月の梅雨明け間近という感じになってきた。

★初蝉の歩みはゆるり老夫婦       酒井誠三
★眠たげに重たげに白さるすべり     中田邦恵
★執着や僧にもありて百日紅       山田涼子
★咲き満ちて天の簪百日紅        阿部みどり女

 


投票後のウォーキング&読書タイム

2019年07月21日 20時19分17秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 投票終了後、買い物の荷物運び。連日の病院通いで妻もだいぶお疲れモード。私もどことなく体が重い。妻はさらにこの蒸し暑さが答えているようで、歩いて20分ほどのスーパーに行くまでにコンビニで一度涼んでひと休み。

   

 途中の住宅の庭で白い百日紅が見事に咲いていた。ようやく「夏」を実感した。
 帰りも途中の公園のベンチで冷たい飲み物を飲んで休んだ。妻は途中からバスで帰宅。私はさらに横浜駅まで歩き、喫茶店で久しぶりの読書タイムとアイスティーで一息。久しぶりの読書タイムだったような気がする。病院通いの慌ただしさで読むことから遠ざかっていた。

 私の場合、日常を取り戻すとは読書タイムとクラシックのCDであろうか。読書は受け身であると 同時に自分が選択するのであるから、能動的な範疇に入る。しかしCDは私の場合は受け身の要素が強い。聴きたい曲を選ぶという行為はあるのだが、選択の範囲は限られている。家にそなえてあるCDの数が少ない上に、ラジオ放送も自分で好きな曲を選択して聴いているわけではない。その上、CDから聴きとれる情報を新たな感動や演奏に結び付けるだけの能力に欠ける。

 受け身かどうかという範疇を持ってくるとすると、政治選挙というのは受け身であると言えるかもしれない。選択の範囲は狭い。だがその選択の幅の狭さは、自分から主体的に動くことを考慮すると一概に受け身とは言えない。政治の投票行動を、狭い選択範囲の受け身として考えるのではなく、主体的に動く、ということを経て、見える世界が広がる場合がある。
 状況を主体的に判断した上で自らが主体的に動いた場合に世界は拡がる。人の意見を妄信せず自分の眼で見ようとすること、原点としての戦後政治の流れや社会の動きを大切にした上で社会を見ようとすれば、「今」が必ず見えてくるものである。

 

 


参議院選挙投票日

2019年07月21日 10時26分48秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は参議院選挙投票日。今回は期日前投票に行く状況になくて、本日の投票となった。どうなることやら。選挙へのかかわり方はいろいろあるが、以前よりは体を動かす運動量が減ってきたように思う。ビラまきにしろ、街宣行動にしろ、何につけ体力勝負というところがあった。特に参議院選挙は夏に行われるために、暑さとの勝負。
 
 しかし私が老人になっただけでなく、現役世代のかかわりも体を動かすということが少なくなっているようだ。
 かといってネットでの選挙活動が有効かというと、上滑り現象となっていることは間違いがない。言葉が乱暴で人の心に届いていない。基本は面と向かった会話であり、演説に対する反応であったり、ビラの手渡しのときの語りかけ、朝立ち・夕立ちのときの挨拶、日常での有権者との会話に尽きる。
 繁華街での瞬間の人の集まりだけでは判断はできない。

 そして政治活動とは選挙だけではないのだが、それが伝わっていないのももどかしい。日頃のデモまでもが今や迷惑行為として糾弾される時代になってしまっている。政治そのものが社会から浮いてしまっている時代になった。もう一度「政治」そのものの捉え直しが必要な時代のようだ。

 政治家も、そして「市民」も、日本の政治の在り方そのものを考え直さなければならないようだ。何しろ政治家が一番嘘をつき、人を傷つけ、利益誘導という不公正を地で行き、公約を無視し破るのが当たり前になり、人間としてまともな思考・行動ができない人間が「政治家」になる。それが政治と「政治家」が人から相手にされなくなる元凶である。