以前にも記載したかもしれないが、再び。
宮崎進の画文集「旅芸人の手帖」のⅢ「魂の果て 墨東と北国」に次の絵と文章が掲載されている。
絵の題は「石狩」、1958年の作品。文章は、詩のようで、述懐のようで、生と死を見続けた画家のつぶやきのような文章は私の心をいつもゆさぶる。
私はどうしても先行世代の戦争体験、戦後体験に引きづられてしまう。どうしてそうなったのかはわからない。生と死をくぐりぬけてきた研ぎ澄まされた刃のような煌めきに惹かれているのだと思うことにしている。
地表に降り注ぐ陽の光と風だけが通り過ぎて行く。
この果てにいったい何があるのだろうか。
なぜだかわからないが、私はただただ渺々(びょうびょう)として
何ひとつない北国のこの風景が好きだ。
地の果てまで大地が広がり、空がある。
黒い鳥が群れ、小石や枯れ草の続く荒れ地は道もなく、寄り添う家並や、風雪に歪んだ針のような本が、大地に張り付いて生きる人間の営みを思わせた。
すべてを拒み、引き裂くような風景。
この地の果てに何があるのだろうか。
知る由もないが、何かが私を前に押しやる、
そうしないではおれない私があつた。
積丹、石狩、網走、納沙布、竜飛、恐山、尻屋崎と、
その頃、冬が来ると、私はたびたび北国に出かけた。
肌を裂く吹雪の中を、
ある時は、寄る辺ない旅人のようにさまよい歩いた。
流氷の岸辺に、荒野にそよぐ草や木に、飛んでいく鳥にも、
在る物が宿す命の様は、眼に焼き付いてイメージを駆りたてた。
この本の最期に宮崎進は次のように記している。
「三十歳にも手の届く年に(シベリヤ抑留から)引き揚げてきた私は、何もかも失って呆然として、家族を前にどうすればよいのか、考えあぐねていた。そこには大きく立ちはだかる問題もあったが、その頃の私には何より、いかにして失った時間を取り戻すか、何か描かずにおれない自分があって、自分を託すような主題を求めていたのである。そして何かに憑かれるように冬の裏日本(ママ)、東北、北海道の各地を歩き回った。私が大道芸人やサーカスを描いたのは一九六〇年代から七〇年代にかけてで、その旅の出会いにはじまる。‥世の片隅で、自分のすべてをかけて生きる、いわば農耕社会からはみ出したといわれる彼らの寄る辺ない生き様に、私は私の中の漂泊の思いを重ねようとしていたように思う。」