昨日は昼から退職者会のカラオケのイベントの取材。取材をしながらだいぶお酒を飲んで、愉しんだ。一次会では終わらず、二次会もお付き合い。その後数人で三次会まで。カラオケのイベント自体は退職者会の費用で賄ったが、それ以降は割り勘。だいぶ散財をしてしまった。それでもいろいろと楽しい議論も出来た。
帰りは酔っていたもののかなりの距離を歩いて帰宅。それなりに早いスピードで歩いた。自宅についてみると1万8千歩を超えていた。
さすがにくたびれて入浴してすぐに就寝したものの、1時間ほどして足の甲が攣って目が覚めた。慌てて湿布薬を塗布したところ、20分ほどでおさまった。
本日は昼からいつものように横浜駅まで歩いてみた。昨晩の痛みは嘘のようにおさまり、快適にウォーキングが出来てホッとした。いつもの喫茶店で「幻術原論」(赤瀬川原平)の第2部「在来の美」を読んだ。
「絵具を塗ることが一番楽しかったのは、印象派の人々ではなかったかと思う。あの人たちは絵を描くことが楽しいと同時に、絵具を塗ること自体が楽しかったのだ。・・・「近現代」の絵画というのは、印象派と同じことをしていられないというわけで、テーマや工夫ばかりが開発されて、自意識が絵具の外に丸出しになってくる。印象派の得には、自我の蒸発という感覚さえ味あわされて爽快である。現代美術に魅力的な絵があるとすれば、必ず印象派の絵具と命脈がつながっているはずである。」(モネ「睡蓮」のリフレッシュ)
「ヴラマンクは、よく見るとあまり凄くなくなっていた。一点だけ見ると「凄い」と思いそうになるのだけど、同じのが何点も並んでいるとだんだん凄くなくなってくる。「凄い」というコツを覚えて、あとはそのコツだけで何枚もおなじ「凄い」絵を描いている。たんなる職人芸になり果てている。・・・ヴラマンクはコツの中におさまりかえっているのだけど、佐伯祐三は何だか迷子の絵具のようだった。斧具の原色の快感は印象派の人たちが味わってしまい、絵具の温ふりの快感はゴッホやヴラマンクが味わってしまい、バリの風景は全部ユトリロが描いてしまい、もう自分の描く領分がなくなっていて、それでもやはり絵が描きたいという人間のいらだちが絵具の上に滲み出ている。佐伯祐三はそういう絵具でそのまま絵を描いてしまったのだった。」(迷子の絵具―佐伯祐三、ヴラマンク)
私の好きなヴラマンクと佐伯祐三の評、なかなか含蓄があると感じた。このような評があるが、共に私が気に入っている作家であることに変わりはない。
「ポロックの作品などは20から30年前はあっと驚く革命的な現代芸術であった。それがあっという間に近代芸術になり果てている。・・・実に無残なものである。ポロックの作品などは、かつての素晴らしいエネルギーの幻影だけを世の中に残しい、あとは美術館の壁から消え去ってしかるべきではないか。粗末な写真と目撃談だけを残して、その実物は崩れ去るのがふさわしい。・・・現代芸術とは一瞬のものである。それはいつも新しい思想と新しい構造をって一瞬の間に現れる。それを支えるはずの経済体制には、その現代芸術に見合うだけの新しい構造も変革もないわけで、そこで一瞬にして現代芸術は消えてしまう運命にある。それが消えもせずに双方が癒着すると、その背中合わせの隙間に虚妄だけが立ち昇ってくる。要するに現代芸術というものは、金で買っては残せないものなのである。60年代初頭の現代芸術、例えば篠原有司男をはじめとするネオダダ・グループの作品群などは、いまはほとんどぼろぼろに崩れて棄てられて残ってはいないという。それはいまにして思えば幸せなことだ。その崩れ落ちた作品群は、いまもなお革命児の幻影を生きているのだから。」(金で買えない現代芸術―バイク、ポロック)
「現代芸術」に対する突き放したような記述であるながら、私には的を射ているように感じる。現代芸術の定義そのもののように感じてしまった。「時間」というものに対してどう対処しようとしているのか、そして「普遍性」ではなく「個別性」「私的行為」にまで解体してしまう「芸術」の行きつく先を見通しているような記述である。