午前中にジョルジュ・ルオーの作品を取り上げた。以前に取り上げた作品にこの作品がある。「郊外のキリスト」。作品がどういう場面を描こうとしたのか、分からない。じつはルオーの展覧会、幾度か見た記憶があるのだが、図録が手元にない。ポストカードも数枚しかない。
6枚ほど画像をスキャナーで取り込んでパソコンの中に保管されている。しかし2010年5月の標示で、づれもあまり高画質ではない。画像を取り込み始めた頃で、記憶も曖昧になってしまった。図録も今は見当たらない。あるいは図録はショップでめくってみただけで購入はしていなかったのかもしれない。残念なことをしたものである。
この作品、描かれている街の風景はルオーの生きた時代である。キリストが実在するとしてその時代の風景ではない。手前に成人がひとり、これがキリストなのだろう。その横に子どもがふたり。聖書には登場しないので、聖書のエピソードをルオーの時代に再現したものでもない。
だが、この夜更けのさびしい寒々しい街の夜景に配された孤独そのものといった「キリスト」と静かに立っている貧しいとしか思えない子どもふたりの静かな立ち姿は何とも言えずに印象的である。
私はルオーの描く世界の寒々しい、そして孤独の雰囲気にとても惹かれる。ルオーの作品が宗教的か否かはまるで考慮せずに、私の頭の中にそのままスーッと入ってきてしまう。満月のような月も印象的である。
★月天心貧しき町をとおりけり 与謝蕪村
ルオーの作品に描かれた月は満月なのに高度は低い。まだ月がのぼったばかりか、沈むころの月ではないか。季節的には秋から冬なのだろうか。絵の気分としても秋から冬のようでもある。実刑というよりも、心象の月ということにしておこう。
蕪村の句では、月は南中しており、普通見上げるとすると高度は60°以上に見上げる月である。イメージは晩秋から冬である。「貧しき町」を手掛かりとして考えると晩秋から冬、そして満月が似合う。満月とは言っていないが、私は満月の方がこの句に沿っていると思う。
そしてこの「キリスト」と子ども、どんなイメージがルオーの中にあったのだろうか。蕪村とルオー、どこかで共鳴している。
絵画はいつも言うけど、わからないので、感じたまましか書けない。ただ、蕪村の句をのせてきた氏はやはりすごいな。ピッタリだと思います。それだけ、ふだんから、句を考えているって事か。
話は変わりますが、氏の官能絵画に釣られて表紙が素敵なので、ついつい西岡文彦氏の「絶頂美術館」という文庫本を買ってしまいました。古代ローマの奴隷市場の風景ですが、これは男の性のあこがれですな。高校時代、友人と、ストリップ劇場に入り、ステージの合間に、最前列で弁当を食っていました。その男たちと、私は似たような視線を踊り子さんに注いでいたのです。いつか、機会がありましたら、ぜひ、ジェロームの絵画も取り上げて下され。なあんちぃ。
誤字ありました(T_T)
付⇒月でした。訂正済み。
「絶頂美術館」はレジでちょっと照れますね。まだ購入していないです。
「官能美術史」にもジェロームは載ってました。
私はラファエル前派の女性像に惹かれます。