本日近くまで行ったJRの駅では、京浜東北線などの運転見合わせに伴い、駅員が運行状況をメガフォンで声を枯らして利用者への呼びかけを行っていた。
横浜線は定時の運行、京浜東北線は赤羽駅折り返しということで、特に支障はないように思えたが、10分の遅延が大問題となる首都圏では、おおごとである。
今回の基幹変電所の火災の発生の原因は特定できていないらしいので、軽々に意見を述べるのは芳しいことではないことを承知の上で、敢えてひとこと言ってみたい。
和歌山県の水道橋の崩落、今回も含めてJRで続く施設の不具合、東電の原発の維持管理のあまりの杜撰さなどなど、都市基盤・国土強靭化を維持していく方法、方策の抜本的な見直しが必要なのではないか。効率化、公営維持否定だけでここ数十年経過してきたが、その負の側面が露呈していると私は思う。せっかく作ったものが、お荷物として放置された結果が、市民生活を破壊していないだろうか。
私の現役の頃からずっと言い続けて、労使交渉の場でもいつも組合の立場で当局との議論で平行線になってしまうのが、「維持管理の重要性」、そして「維持管理のための人員・機材・予算の確保」であった。
日本では戦後の高度成長期以来、「つくること」については一般受けもよく、政権に居座る政治家にとっては「成果」を誇るものの代名詞が「施設の建設・誘致」であった。一番いい例が、1964年の東京オリンピックを目標にした新幹線や高速道路、地下鉄の建設や、下水道整備、河川整備、砂防ダム・治水ダムといった災害対策の施設建設であった。
だが、建設をして一番の問題は、その維持管理とそのための予算の確保である。鉄道も道路も、下水道も、砂防ダムなども、作っただけでは意味はない。構造物は必ず劣化する。維持管理をきちんと行うための人材を育成し、予算や機材を常時確保すること、そのための資金の目途を立てること、が行われないといけないのである。どうも維持管理の費用というものは、無駄の象徴のようにこれまで扱われてきたと、反省すべきであるとおもう。維持管理には建設費以上のコストがかかる、というコンセンサスが必要である。私たちはランニングコストも負担することに自覚的でなくてはならない。そのための社会の仕組みを少しずつ変えなくてはいけない。
横浜市でも、急激な都市化で、道路・下水道整備、学校などの教育施設、福祉施設の整備が遅れ、大変な苦労をした。ところがいざそれらが整備できると、財政当局は途端に人員や予算を削減しようとする。それをどれだけ削減したか、が“ポピュリズム”的政治家の「成果」とされることに私は大いなる疑問を持っている。そのもっともひどい例が、あの中田宏市長だった印象がある。
どんな場合でもその維持管理のための人員・予算・機材などが必要である。毎年そのための人員・予算確保で労使交渉の大半が浪費される。当該の事業局が維持管理の重要性について認識できれば、財政当局もそう簡単には口出しはできないのだが、当該局の姿勢が曖昧であるとなかなか財政当局の締め付けには抵抗できない。
私は道路・下水道・公園の維持管理の末端にいたのだが、維持管理のための人員というのは、とてつもなく大きな「財産」であり、それが若い世代に引きつがれていくことが、「横浜市の都市基盤にとっての将来にわたる最大の財産」であることを口を酸っぱくして言い続けてきた。退職時には当該局もその方針は理解を示してくれていたが、果たして現在も本気でその気になっているか、はなはだ心もとない。
一市民となった現在も、気持ちは変わらない。
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か? 成果か…笑わせられる。
維持管理の仕事を外注化して、責任まで業者に押し付けてしまう今の政治の体制は「無責任体制」そのものだと実感しています。
民間でも外注が当たり前で、民も官も責任は下に押し付けですね。
これでは利用者や消費者にメリットは何もないことになります。
もう政治も社会も底なし沼にはまり込んだ、といっては救いがなくなってしまいます。どうしたらよいのでしょう。