読み始めた「ゴヤ」(堀田善衛)は、スペインの地理的景観、歴史的背景から始まる。知っているようで知らないスペインという風土、地理。ということで、高校生用の世界地図、歴史地図をコピーして文庫本サイズの大きさに裁断して、栞変わりに使うことにした。
見方を変えれば、作者はずいぶんと基本的な調査をしながらこの本を構想し、着手したことがよくわかる。スペインやイスラム教、キリスト教‥ということがこれがすべて正しいということではないはずと思うが、堀田善衛という著者のアプローチをまずはじっくりと拝見。
まずは冒頭からスピノザの文章が引用される。実はこの部分が最初の私には驚きの叙述であった。
「われわれの側に、もう一つの厄介な先入見がある。それは“情熱的”という、なんとも定義付けの仕様のない、漠然たる情念である。いったい“情熱的”とはどういうことなのであろうか。情熱とは、第一義的には、“受難、苦難”を意味し、これが複数になり大文字になれば、キリストの受難を意味する。受難、苦難から発して激情、激怒、熱情とまで来れば、それらはすべて受け身な、暗い感情であることがおのずと明らかになるのではなかろうか。“明るく情熱的”ということは、ことば自体として矛盾しているであろう。哲学者スピノザならは言うであろう‥‥‥。『受け身の感情(情熱)は、われわれがそれについて明確な観念を形成するや否や、たちまち受け身であることを解消する。受け身な感情は、混乱せる観念である。」と。情熱的な人間とは、これはあまり名誉ある呼ばれ方ではないであろう。受け身な、暗い感情の持ち主とは、誇り高いスペイン人たにとって耐えがたい称呼であろう。」
私は最初の3頁の末尾から4頁にかけてのこの部分で立ちどまってしまった。私の頭の中では「情熱的」とは、主体的で能動的で、前向きな方向と理解していた。あることに邁進しようとする大きなエネルギーを持つ主体と思っていた。
確かに情熱的であるということが、受難や苦難という強制敵に与えられた刺激に対する反応を差し、それに反発するように発生する感情、怒り、熱情ならばそれは受け身であるかもしれない。しかし自己の内発的な思いを達成しようとする感情が切り捨てられていないか。と考えてしまう。
この指摘、確かに指摘されれば納得のいくこともあるが、同時に保留も必要だということで次に進むことにした。ある意味新鮮な刺激を受けた。
そしてこんどははじめの10頁目で惹かれた個所があった。
「コルドバの回教寺院転用のカトリック大聖堂を訪れるごとに、大袈裟なこと言うといわれることを覚悟の上で敢えていうとすれば‥‥この天井が低く薄暗い柱の森は、キリスト今日のそれのように側壁にはほとんど何の装飾もなく、ひたすら水平にメッカの方向をめざすものであり、その後に作り込まれた(キリスト)教会堂は、これはまた垂直に、天を仰ぐ形になっているからである。メッカをのぞむ水平方向の信仰と天を仰ぐ垂直信仰とが、ここだけで共存していたのである。」
テレビで幾度かコルドバの回教寺院からカトリック大聖堂に変わった建物が写されたのを見たことがあると記憶しているが、このような垂直と水平方向の在り様については気がつかなかった。また少なくともキリスト教の垂直方向の信仰、という指摘には頷くものがある。イスラム教については知識がないのでわからないが、確かにメッカの方向への礼拝など思い当たるものがある。
このような把握、理解に惹かれた。また記憶しておきたいと思った。