昨日「第34回道展」の帰路、同じく馬車道にある神奈川県立歴史博物館に行った。
開催していたのは「特別陳列 古文書が語る富士山宝永噴火-神奈川県域の被災と復興-」展。
1707年12月16日(宝永四年11月23日)にはじまった宝永噴火は16日間続いた。
新井白石の「折たく柴の記」にも江戸での降灰の様子が描かれている。今回の展示は、チラシにもある噴火の様子を描いた絵図のほか、被害を受けた村々が幕府や領主・地行主に当てた救済を求める書面が解説付きで展示されている。
丁寧にも各文書の釈文集が無料で配布されており、興味深い。
中でも幕府の対応の手遅れ、遅い現地確認などが明らかになっている。神奈川県域(旧相模国、武蔵国南部)への降灰の量なども展示されている。
さらに「天地返し」という畑の上に降り積もった火山灰を旧来の土壌と入れ替える具体的な方法は、いくら文章で説明されても理解できなかった。しかし今回図解で示され、はじめて理解できた。
狭い展示スペースであったが、興味深く見ることが出来た。
この噴火では今の横浜では40センチほどの降灰があり、人力以外の方法はないために火山灰の撤去はなかなか進まず、復興は進まなかったことが窺える。米の収穫は終わっていたが、農民が食料としてきた麦がほとんど灰を被り、深刻な食糧不足や川の水位の上昇-堤防の決壊や浸水などを招いたという。
今も昔も災害時にこそ、為政者の能力と復興への迅速な対応が求められるのだが、初動でつまずくと人災へと転化してしまう。政権運営者にとっては災害対応はその能力の試金石である。
なお、展示では触れてはいないが、この宝永噴火の49日前に南海トラフ地震(М8.6~9.0)があり、地震直後から富士山近辺で地震・地響きなどの前兆現象が続いていた。
この噴火による経済的な損失は多大だったことが充分にわかる。横浜の保土ヶ谷宿でも帷子川の水位が上がり、川舟が保土ヶ谷宿まで遡行できなくなり、芝生村に船着き場をつくりそこから陸路で荷を運んだということを以前に講座で教わったことがある。東海道から開港場までの道の分岐点辺りだと理解している。
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