「春画のからくり」(田中優子)の「いけないヌードから正しい春画へ」、「江戸はトランスジェンダー」、「春画の隠す・見せる」を読み終えた。
「私がフェミニストの運動家なら許さないだろうと思う現象が巷では起きている。女性ヌードの氾濫である。なぜ、女性なのだろうか、なぜヌードなのだろうか。春画には女性ヌードは皆無だからだ。春画は必ずといっていいほど、着物を来ていたり欠けていたリス。ヌードを見せるための絵ではなく、性交を見せるための絵だからである。春画は着物やついたてや襖などで、身体をできるだけ隠し・・。多くの春画は男女ほぼ同じ露出度である。春画は「笑い絵」ともいわれ、・・からりとした生の笑いと喜びとエネルギーは、人間を元気づけるものだからだろう。おおかたの女性は、一方的な視線に興味は持たないのかもしれない。」(「いけないヌードから正しい春画へ」)
「喜多川歌麿は春画の中にドラマを作り上げた・・。歌麿の春画における着物や調度はすべて、ドラマを仕組む小道具になっている。春画はそれだけ洗練され、物語性に向かって集中していった。」(「春画の隠す・見せる」)
「葛飾北斎は、個の中に増殖してゆく幻想や、おのれの独特の視覚を通した外界をそのまま描く天才的な能力があったが、「関係」を描くことや、絵を見る側の内面を想像することのできない絵師だったのかも知れない。」(「春画の隠す・見せる」)
「「隠す・見せる」というのは基本的な表現技法のようにも思えるが、そのバランスを保つのは容易ではない。いつの時代でも可能、というわけでもない。作る側・見る側ともに、共通の教養基盤があってこそ、隠すこともでき、相互の想像裡で見せる・見る、という関係も作り出すからだ。その共通基盤が失われてしまうと、誰に見せてもすぐにわかるものへと傾斜してゆくであろう。一見月並みと見える表現の中の小さな差異を探り当て、コミュニケーションの喜びを見出すというのは、かなり深い教養のいるものであるし、互いにある程度共通した知識と感性がなくては、成立しないのである。・・絵画(浮世絵)にとどまらず、江戸期の文芸も同じ途を辿っていった・・。一定の教養を背景にして成立する文学・浮世絵の方法が姿を消し、誰でも見て読んですぐ判る、という大衆化路線に姿を変えていったのである。日本にとって近代への準備でもあった。・・大衆消費社会の出現――春画の表現はそれによって大きく変わったのではなかろうか。」(「春画の隠す・見せる」)
「日本の裸体芸術」(宮下規久朗)とは違って、前半は江戸時代に限った論稿ではある。前半は構図や描かれたものの変遷から時間軸を辿り、春画だけでなく、文化自体の変遷を遡上にのせている。江戸時代以降への言及は後半に期待。