お盆で団地の中も人の気配が少ないように感じる。夜も静かで、タクシーで遅くに帰宅してくる住人もいない。夜コツコツと歩く人の靴の音も聞こえない。ベランダの明かりも少ない。
昨晩、セミが玄関扉の外側、階段室の天井近くの壁にとまってさかんに鳴いていた。ミンミンゼミだった。生の最期の時なのだろう、方向感覚を失ってときどき天井や壁や扉にぶつかりながら飛び回る。そうしてまた壁にとまって鳴く。その声が金属的な音でとても喧しい。布団に入っても気になる。
気になるのは、その声が断末魔に発する生体の音として聞いているからだろうか。それもあるかもしれない。だが、本当はそうではないのではないか、とも思った。
セミの声は、やはり樹木の幹にとまっているときの声がいい。樹木の幹に少し音を吸い取られ、葉をとおして鋭さをけずられ丸くなって私たちの耳に届くと気にならなくなるのだと思った。
コンクリートの壁に共鳴し、金属的な音が減衰することなく、鋭い尖った音のまま私たちの耳に達するととても気になるのだ。そしてそれを断末魔の声として聞くと、私達は苦しそうなもがき苦しむ音として聞いてしまうので、より一層気になるのである。
きっと秋の虫の声も同じだと思う。あるいは小鳥の声も同じかもしれない。あの独特のウグイスの声も、階段室で鳴かれたら、風流な声には聞こえないと思う。樹木も枝にとまって、葉の間をとおって響いているから、人の耳にも心地よく聞こえるに違いない。
樹木というものは、大きな働きをしているのだろう。いや逆である。樹木が周囲にある世界で生きているから、私達はそれを介した音を心地よく聞くのである。
そのうちにコンクリートの壁をとおした音のセミや虫や小鳥の声が喧しい、と排除しようとする世論が多くなるかもしれない。あるいはもうなっているようだ。セミの声が「うるさい」と聞こえて駆除の依頼が自治体に寄せられているという報道も聞いたことがある。
ひょっとたら、逆になる可能性もある。樹木に響くこれらの生命の声よりも、コンクリートや金属の構造物から発せられた方が心地よいと思う人々も出てくるのかもしれない。
しかしそうなったら私はもう生きているのが嫌になりそうである。