図書8月号を読み終えた。今月号で目を通したのは、次の14編。今月号は少々拍子抜けの文章が多かったが、いくつかはとても惹かれた。落差が大きかった。「広報誌なので」というならばがっかり。
・[表紙]ヨハネ・パウロ二世 杉本博司
・私の伯父さん 高草木光一
・銭湯のロマン 森見登美彦
・シグナルズ 中野 聡
・煙草について 原田宗典
・サルと文学―-日本動物期の世界 坂野 徹
・『クマのプーさん』を読みながら 司 修
司修も大江健三郎のヒロシマノートのこの文章に引っかかったのかもしれない。引用個所はつぎのとおり。「自分の悲惨な死への恐怖にうちかつためには、生きのこる者たちが、彼らの悲惨な死を克服するための手がかりに、自分の死そのものを役立てることへの信頼がなければならない。そのようにして死者は、あとにのこる生者の生命の一部分として生き延びることができる。この、死者の賭けが・・・・」(「ヒロシマ・ノート」 Ⅳ「人間の尊厳について」)。
大江健三郎の文章は、代名詞が何を指すのか、丁寧に類推しないととてもではないが文意がつかめない。この箇所、私も学生のころ理解できなくて、放り出しそうになった箇所である。今でも記憶している。そしてヒロシマ・ノートではあまり見かけないが、小説では不意の体言止めで読者の意識の流れを突然遮断する。いつも私はこれらの文章を前にたじろいでしまうのだ。
これについては「晩年様式集」の感想でも触れてみたい。司修は体言止めまで利用しながらこの論考を書いている。追悼文としてはなかなか手がこんでいる。大江健三郎の小説の読み解きのヒントも隠されているようだ。
・中国古典の向きあうために 小勝隆一
・波 志賀理江子
「津波の体験は、近代が一瞬でも壊れるとどうなってしまうのか、という経験だった。「死」がむき出しになって、素手で触れる距離にあったあの夜は、私に、恐怖のパニックを引き起こしながらも、これまでの「違和感」がなくなり、この事は絶対に覚えておく、と心に誓うような夜でもあった。」
「人間が死に近づけば近づくほど、もしかしたら絶望とは別の「知覚」の変化が訪れるのではないか、一人の体という器から己の「感性」が溶けだして、世界に素手で触れるような体験をしたのではないか。何かを能動的に、積極的に見る、見続けること。例えば、空や海を見続けることでどれだけのことが想起されるのか、ということなのだ。‥目で見ることが、自分の内と直につながり、私は支えている。今こうしてやっと自分の目を信じることができるような気がする。」
筆者は写真家で、東日本大震災時、宮城県名取市で津波に会い、避難所生活をする。そこであらためて自らの写真家としての目を意識する。いい文章だと思った。
・ふつうでいるために…という努力 山谷典子
・美術学校の精神的象徴してなかば公開制作された《悲母観音》 新関公子
「フェノロサは東大で明治19年7月までの約8年間も政治学、理財学、哲学(史)を講じた。デカルトからスピノザ、スペンサー、カント、ヘーゲルにいたる近代哲学史だった‥。」
「悲母観音に描かれた球体の中の赤ん坊は天界から下界に下降する動き、つまり落ちていく人間の魂を示しているとすると、芳崖がプラトンの魂の輪廻転生と仏教図像とキリスト教における聖母子像を総合して悲母観音という、まったく仏教図像学にない新図像を生みだしたという考えに私は行きつく。」
「東京美術学校物語」の第8回目の論考である。これまで最初だけしか目を通さなかったが、少なくとも今回はとても説得力のある芳崖に与えたフェノロサの影響の解明である。プラトンの「国家」に出てくる「洞窟の比喩」と関連があるというのは初めて認識した。また岡倉天心の《悲母観音》解釈の誤謬も納得のできる指摘である。
「《悲母観音》は美術学校の精神的象徴に相応しい東西の哲学宗教を総合する奇跡のような作だった。」
・Brief Encounter 谷川俊太郎
「恋人との別れを通して私は初めて他人というものの存在を実感したのです。」
・ゆうやけ七色 狂言「猿座頭」 近藤ようこ
・モモとわたし 寺地はるな
「忙しかろうがのんびりしていようが、自分の時間の使いかたに自分自身が納得しているかどうか。それが一番大事なこしなのではないだろうか。‥他人から勝手に生きかたの正解を決められてはかなわない、と常々思っているからなのだろう。」
酷しい暑さの中でコツコツと活動なさっておられるご様子、ただ頭を垂れるのみです
御身体お大切に、佳き時をお過ごしくださいませ
「コツコツ」というと聞こえがいいかもしれませんね。ダラダラとというほうがあってるかな?
葦原の山姥様も、お体を大切にお過ごしください。
フェノロサっていつも岡倉天心とセットで出てくるから美術探しばかりやっていたのかなとふと忘れそうになりますが、哲学をおしえていたんですよね!
フェノロサと芳崖の関係、私も初めて知りました。また美学というのは哲学の範疇だったのかもしれませんね。
そしてフェノロサと岡倉天心が一心同体のように語られますが、どうも違うようですね。特に天心の過剰ともいえる国粋主義的発想は、近代哲学と相いれないものがあったのではないでしょうか。
暑さが続きます。体調にご留意ください。またのご訪問をお待ちしております。