病院を出てから近くの緑道を歩いた。カワヅザクラの葉の中に赤い実をいくつか見つけた。花が散ってから一ヶ月、小さいながらこのように赤くなっていた。ソメイヨシノの実は塾すると黒くなるが、カワヅザクラの実も同様に黒くなるのであろうか。身近に見ているのに、そこまで観察していなかったことにようやく気がついた。
観察ということの難しさについて、現役で仕事をしていた40代前に思い至ったことがあった。今さらながらそれを思い出した。
人間の観察力というのは、かなりいい加減だと言われてきた。小・中・高校とずっと教師に言われてきた。勤めてからも先輩などによく諭された。30代になるまでは、そのようにならないように一生懸命「観察」することで精一杯だった。
しかし30代半ばを過ぎ40代近くになってから、いくらきちんと観察しても、完璧はあり得ない、ということにようやく気がついた。幾度も、必要なたびに虚心ももう一度観察することの方が大切だということに気がついた。視点を変えれば、見えて来るものが違う。こだわるものがわかれば、違う観察ができるのだ、ということがわかった。
それでもそのようなことは、言葉としてはすぐに忘れてしまう。それこそ体で覚えた方がいいのだが、後輩にとっては「体験主義」の変なおっさんに映っていたかもしれない。
仕事を離れて丸8年、ときどき思い出す。それもこんなふうに桜の実を見るようなことで思い出す。それは悪いことではない。美しいものや自然を見て思い出すのであるから。
★活計(たつき)より離れて久し桜の実 菅原 涼
★桜の実岬の端に一人住 須佐薫子
桜の実、実桜は食べるためのサクランボと違って、小さな実である。小さく、頼りなげに風になびき、葉の影に隠れている。そんな風情に自身を重ねることも出来る。老いの実感とも重なり合う句もあった。孤独を実感するときもあるようだ。それでも実はサクランボのように二つがつながっている。