「日本の美術の歴史」(辻惟雄)の続き。すでに私にも既知のことはあるが、私なりの著者の記載の要点を記しておきたい。本日は第2章「弥生・古墳美術」を読んだ。
「縄文人は定住して狩猟とともに採集もやり、補助的ながら穀物栽培も行ったし、弥生人は、狩猟の対象である鹿を神の遣わしと崇めてもいた。フォッサ・マグマを超えた東日本では、‥縄文式と弥生式との葛藤そのものが形になったようなぎこちない土器がむしろ一般的であり、稀には‥両者の調和のとれた融合の例もある。両者の間には断絶よりもむしろ連続がある。縄文的なものと弥生的なもの、岡本太郎が提示したこの二つの美意識の異質性は、決して否定できない。前者を原日本人の土着の美意識、後者を日本が東アジア文化圏に組み込まれてからの混血の美意識ということもできる。大陸的なものも‥縄文人が長い時間をかけて培った原初の美意識の系脈は、簡単には消失しなかった。文化の地底や周縁に潜んで、時折その顔をのぞかす。」(一「縄文に代わる美意識の誕生[弥生美術]」)
「装飾古墳が描かれたと同じ時期、高句麗でも墳墓の壁画が盛んに描かれた。‥中国や朝鮮の墳墓壁画とくらべ、日本の装飾壁画の特色は同心円文‥など抽象文様が多い点にある。‥動物などの具象文も盛期に描かれたが、それらの描写も多分に抽象的であるり、‥平面的羅列にとどまる。‥だが、モチーフの写実的再現のみを絵画の優劣の基準としない現代の見方からすれば、装飾古墳にも大きな価値がある。‥彩色は豊かで美しい。描き手の呪術の力が込められているのを見るのも印象的である。‥死者へのはなむけとしての「かざり」への意欲と情熱は失われてない。」(二「大陸美術との接触[古墳美術]」)
「美術」として縄文・弥生の遺物や装飾古墳を見る視点に注目した。
行燈山古墳を崇神天皇陵、大仙陵古墳を仁徳天皇陵とするなど現在の一般的な表記と違う表記は気になるが、世代的にはなかなかこれらの表記がまだまだ通じてしまうのだろう。このような表記が自然と口の端に登らなくなるのはいつになるのだろう。